世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.805

潮目が変わりつつある物価情勢

熊倉正修

(駒澤大学経営学部 教授)

2017.03.06

 先日発表された消費者物価統計によると,2016年中のCPI総合指数の上昇率は-0.1%で,日本銀行が注目している「生鮮食品を除く総合」指数の上昇率は-0.3%だった。日銀は最新の「経済・物価情勢の展望」において「2%の「物価安定の目標」に向けたモメンタムは維持されている」が「経済・物価ともに下振れリスクの方が大き」いと述べており,以前に比べると随分弱気になっている。日銀短観における企業の予想インフレ率も目立って下落しており,直近のデータでは5年後の見通しですら1%前後にとどまっている。

 しかし筆者の観察によると,物価の潮目はすでに変わりつつあり,遠くない将来に日銀の目標を超えるインフレが発生する可能性が考えられる。そもそも1990年代後半から2000年代にかけて日本の消費者物価が伸び悩んだのは,IT機器や家電製品の価格下落率が統計作成時の品質調整によって過大評価されていたことに加え,日本経済の脱工業化傾向が強まったことにより,生産性上昇率の高い製造業の賃上げが他の産業に波及して物価を押し上げる力が働きにくくなったからである。また,多くのサービス業において雇用の非正規化が進み,就労者の平均賃金が抑えられたことも物価を低迷させる一因になった。

 しかし最近はこれらとは逆のことが生じつつある。第一に,総務省の統計作成方法が変化したこともあり,IT機器の物価は2012年末を境にそれまでの急激な下落から緩やかな上昇傾向に転じている。第二に,より重要な点として,労働人口が減少に向かう中で高齢者向けの医療・福祉分野において労働需要が急増している。第三に,その余波を受けた他産業においてパートやアルバイトの賃金相場が目立って上昇しているだけでなく,事業主が人材確保のために非正規従業員の正規化に踏み切るケースも増加している。

 それでは,こうした情勢変化にも関わらず物価の足取りが重いのはなぜだろうか。この問いに対する私の答えは三つある。第一の答えは,いや,よく見ると物価はもう上がり始めていますよ,というものだ。CPIは多数の財やサービスの加重平均値であり,その解釈にはなかなか難しい面がある。しかし長期的な物価の動向を考える上でもっとも有用なのは,為替レートや原油価格の影響を受けにくく賃金との関係が深い民間サービスの価格である。CPIの民間サービス関連品目の中から政策や品質調整の影響が大きい品目と持家の帰属家賃を除外して物価指数を計算すると,それが1998年から2012年までほとんど不変だったにも関わらず,その後は継続的に上昇していることに気づく。2013年から2016年にかけての上昇率は3%弱にすぎないが,明らかにトレンドは変化している。

 物価の足取りが重い第二の理由は,政府が自ら自然な物価上昇を阻害していることである。上述したように,過去四半世紀間に日本の雇用創出の主役は製造業からサービス業,とりわけ高齢者向けの医療・福祉分野に大きくシフトした。需要の価格弾力性が低い医療・介護サービスの市場において通常の需給メカニズムが機能していたら,価格と賃金相場が急上昇し,他のサービス物価にも強い上昇圧力を与えていただろう。しかし高齢者の反発を恐れる政府は公的保険制度を通じて医療・介護報酬単価を抑制し,受益者の自己負担率も低位に抑え込んできた。こうした政策を維持しながら金融・財政政策によってインフレを煽ることは明らかに整合性を欠いている。

 現時点で物価の動きが鈍い第三の理由は,CPIが家計消費の変化を適切に捉えていないことである。これは先の第二の理由と表裏一体の関係にある。国民経済計算の統計を用いて受益ベースの家計消費総額に占める医療・社会福祉サービスの比率を試算すると,1995年の11.4%から2015年の17.8%へと急上昇している。しかし医療費や介護費の大半は保険制度を通じて支払われ,受益者が直接負担するのはごく一部にすぎない。そしてCPIの品目ウェイトは(持家の帰属家賃を例外として)家計が実際に支払った金額をもとに算定されるので,最新の2015年基準指数においても医療・福祉サービスのウェイトは3%程度を占めるにすぎない。

 しかも日本では医療・福祉サービスの価格が厳しく統制されているため,これらは統計上の一般物価にほとんど影響を与えていない。CPIの医療・福祉関連品目の中でウェイトが大きいのは診察代だが,過去10年間に他の先進諸国の診察代の消費者物価が10〜30%上昇しているのに対し,日本ではほとんど横ばいである。また,現行のCPIには保険外の医療サービスや介護保険対象外の高齢者支援サービス,認可外保育所の保育料などは一切反映されていない。これでは統計上の物価が上がらなくても当然ではないか。

 しかしこうした状況は早晩変化してゆく可能性が高い。第一に,政府が国債を発行して社会保障基金の赤字を補填する政策は限界に来ており,いずれ医療・介護サービスの価格と自己負担率を大幅に引き上げざるをえなくなるだろう。第二に,これから急増する後期高齢者のサービス需要に応えるためには医療・介護分野の就労者を大幅に増やす必要があるが,そのためにはこれらの人々の給与や就業環境の改善が不可欠である。第三に,それが行われれば他のサービス業の賃金相場も上昇せざるをえず,物価の上昇も加速してゆくだろう。

 政府は昨年から「同一労働・同一賃金」のスローガンの下で企業に正規・非正規両方の従業員の賃上げを迫っているから,賃金主導で物価がはっきりと上昇し始めてもすぐにそれを引っ込めることはできないだろう。また,国債を大量に保有する日銀はすでに貨幣量の管理能力を失っている上に,昨年の「オーバーシュート型コミットメント」によってインフレ率が目標値を超えても金融緩和を継続することを約束してしまっている。国民がデフレよりインフレに強く反発することは過去の経験からも明らかだが,それが現実のものになったとき,政府と日銀はどのように対応するつもりなのだろうか。

*このコラムの内容を詳しく解説した論文をこちらで読むことができます。

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