世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.3572
世界経済評論IMPACT No.3572

国立大学の学費値上げで大学教育は改善するか

熊倉正修

(明治学院大学国際学部 教授)

2024.09.23

国立大学の学費値上げが大学の競争を促す?

 岸田内閣は少子化対策のために家計の教育費負担の軽減を進めてきたが,最近はそれと逆行する動きも目にする。たとえば,慶應義塾長の伊藤公平氏が今春の文部科学省の審議会で「国立大学は一年間の学費を150万円に引き上げるべき」という提言を行い,その後すぐに東大の藤井輝夫学長が授業料を2割引き上げる方針を打ち出した。伊藤氏や藤井氏は大学の教育力と国際競争力を高めるために学費値上げが必要だと主張するが,本当にそうだろうか。

 伊藤氏によると,国立大の学生は国が大学に支給する交付金を通じて一年間に一人当たり229万円の便益を受ける一方,学費は54万円しか支払っていない。一方,私大の学生は平均で毎年124万円の学費を支払い,国の補助金を通じた便益は18万円しか受けていない。これでは競争にならないので,国立大生にもコストに見合う負担を求めるべきだという。

 しかし国立大も20年前の法人化後に継続的に交付金を削減されており,台所事情は苦しい。そのため東京工業大や一橋大,東京藝術大学など,集客力のある都市圏の大学は既に授業料を上限ギリギリまで引き上げている。東大の方針はそれに倣ったものである。

国立大が私大に追従すると際限がなくなる

 政府が大学教育のコストの一部を肩代わりする際,個々の大学に補助金を出す方法(機関補助)と学生に奨学金等を支給する方法(個人補助)がある。政府はこれまで機関補助を削って個人補助を充実させる道を選んできたが,個人補助中心の政策には学費の高騰を招きやすいという問題がある。政府が個人に奨学金を支給すると,それが給付型のものであれ貸与型のものであれ,その時点で支払える授業料が増加するからである。

 デフレや景気の低迷を背景に,文科省は2000年代半ばから国立大の学納金の標準額を凍結してきた。それが一種の重しになって私大の授業料値上げも減速したが,その間に国立大の授業料が引き上げられていれば,私大の授業料ももっと上がっていただろう。

 諸外国のうち,アメリカの有名私大の学費が極端に高いことはよく知られている。しかし過去30年間の授業料の上昇率はむしろ州立大学の方が大きい。これは財政難に悩む州政府が州立大への補助金を削減する一方,授業料の引き上げには寛容な姿勢を示してきたからである。

 欧州には今日でも大学の授業料が無料か低額の国が多い。これらの国々は個人補助も行っているが,日米に比べて機関補助が手厚いからである。欧州にも国公立大と私大が併存している国はあるが,私大が勝手に設定した授業料に合わせて国公立大の授業料を引き上げている国は存在しない。

国公私立大は棲み分けが必要

 伊藤氏は国立大と私大の学生一人当たりの補助金額を単純に比較しているが,国立大と私大では教育内容が異なる。国立大には医学部や理工学部など,施設や機材に膨大な資金を要するものが多いのに対し,私大は人文・社会科学が中心である。

 国立大にも私大と競合しやすい文系学部はあるが,だからといって国立大の授業料を私大並みに引き上げればよいというものでない。日本では国立と公立,私立の大学や高校が無秩序に乱立している。少子化が進む中でこうした状態が続くとますます非効率になるので,国公私立校が各自の存在意義を再確認し,それに適合する分野に資源を集中すべきである。

 全国の国立大は約10年前の「国立大学改革プラン」の一貫として,①世界的な研究教育拠点,②特定分野の研究教育拠点,③地域の教育研究拠点のいずれを目指すのかを決めるよう迫られた。その結果,16校が①,15校が②,その他の55校が③を選択した。

 上記の①(と②の一部)を自認する国立大にとっては研究と研究者養成が主たるミッションであり,学部教育は重荷のはずである。そうした大学が学部の授業料を引き上げて研究費や大学院生の教育費に回すことは望ましくない。これらの大学は思い切って大学院大学化し,研究成果にもとづいて政府が補助金を配分することが望ましい。

 一方,上記の③を選択した国立大の機能は公立大学の機能と重複する。今日の日本には98の公立大があるが,その中には総合大学から医療・福祉系の単科大学まで様々なものがある。最近は経営が行き詰まった私大を自治体が引き受けて公立化する事例も増えている。

 また,都市圏以外の私大は軒並み定員割れ状態にあり,抽象的な学問を標榜しても学生が集まらなくなっている。だから地方の私大では看護や福祉,保育,自動車整備など,もともと専門学校や短大の牙城だった分野を4年間かけて教える課程が増えている。

 したがって,③のタイプの国立大は既存の大規模公立大と合併するなどして公立化し,地域の人材育成の拠点となることが望ましい。そうした大学が中小の公立大や私大を束ね,自治体と連携しながら地域の社会保障や産業を支える人材を計画的に育成すべきである。

大学教育を5年制に?

 伊藤氏は国立大の授業料引き上げだけでなく,全ての大学の文系学部を学部+修士課程の5年一貫課程に再編成することも提唱している。現状では文系大学生の大半は4年間の学士課程だけで卒業するが,3年次から就職活動が始まるので落ち着いて勉強できない,5年にすれば教育水準を上げられるというのがその根拠である。

 しかし授業料を150万円にして修学年限を5年にすれば,文系の国立大生でも卒業までに750万円の学費を支払うことになる。慶應義塾が一貫教育校と呼ぶ慶應幼稚舎から慶應大学まで16年間通うと,現状でも2,000万円以上の学費がかかる。そうした費用を負担できる家庭なら大学が5年制になっても構わないかもしれないが,大多数の家庭は困るだろう。伊藤氏は奨学金を拡充すればよいと言うが,どこからそのような資金が出てくるのだろうか。

 実は欧州の多くの国々では過去に伊藤氏の提案に近い教育が行われていた。しかしEU統合に合わせて高等教育制度のすり合わせが行われた結果,今日では学部3年,修士2年,博士3年に標準化されている。こうした制度に落ちついたのは,その方が合理的だからろう。

文系大学は肥大化よりスリム化を目指せ

 日本の大学の文系学部は,修学期間が短いことより長すぎることの方が問題である。上述したように,最近は看護師や保育士を目指す人の中にも専門学校や短大より大学を選ぶ人が多くなっている。これは必ずしも本人が希望しているからではなく,対面を気にする両親や高校がそれを薦めるからである。

 また,職業教育を行わない文系学部の中には専門性の乏しい「○○教養学部」や「国際○○学部」が増えている。この種の学部には女子学生が多く,ひと昔前なら短大の文系課程に進学していたと思われる者が少なくない。こうした課程は始めも終わりもあってないようなものなので,学修期間を3年に短縮すれば3年で卒業するだろうし,5年に延長すれば5年間在籍するだろう。しかしそれによって社会人になる準備が進むわけではない。

 筆者は以前のコラムで大学の修学期間を自由化すること,卒業単位の一部を企業等における研修によって代替できるようにすることを提案した。勉強は将来のための投資なのだから,やることが終わったら一日も早く卒業させるべきである。文系学部なら現行のカリキュラムでも3年や3年半に短縮可能だが,長期休暇中に学び続ける機会を増やせばより短時間で卒業させることもできそうである。

 最近は新卒採用におけるインターンシップの重要性が高まっているが,1週間前後のインターンを単なる会社体験以上のものにすることは難しい。そこで,大学の卒業単位の2割程度をインターンシップで代替することを認め,企業や官公庁の内定獲得後すぐに半年程度の就業訓練を受けることができるようにすることを提唱したい。インターン終了後に単位認定を行って卒業し,本人と雇主が合意すれば正社員ないし正職員として勤務し続けることができるようにすれば,社会人への移行を前倒しすることが可能になる。

 社会が成熟して進学率が上昇すると,いつまでも学校に留まっていようとする若者が増加する。しかし先進国においても開発途上国においても長期間の高等教育が必要な専門職に就く人は少数派であり,それらの人たちだけでは社会が成り立たない。大多数の若者は本人が嫌がっても早期に社会に送り出す方が親切であり,それをしないのは無責任である。高額の授業料を徴収して若者をいつまでも宙ぶらりんな状態に留め置こうとするような提案には厳しい目が向けられるべきである。

(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article3572.html)

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