世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.3780
世界経済評論IMPACT No.3780

インフレと人手不足で変容する社会保障関係費

小黒一正

(法政大学 教授)

2025.03.31

 日本経済がデフレからインフレ経済へと転換しつつある中で,日本財政の最大の懸案事項であった社会保障予算において,興味深い動向が顕在化し始めている。このような情勢変化の主な原因には,国際秩序の変容で経済安全保障が浸透し,各国で物価の上昇圧力が増していることや,日本では構造的な貿易赤字や日米金利差等による円安の進行のほか,本格的に人手不足経済に突入したことも関係している。従来の議論では,少子高齢化が進むなか,医療費や介護費は,団塊の世代が75歳以上の後期高齢者となる2025年が大きな節目として一層膨張し始めると見られてきたが,実際の予算案を見ると,必ずしも常識どおりにはなっていないことが分かる。

 その象徴的な例として挙げられるのが,2025年度における国の一般会計予算案だ。財務省の資料によると,総額約115兆円のうち,最大の支出項目である社会保障関係費は約38兆円を占める。内訳としては「年金」が約13.6兆円,「医療」が約12.4兆円,「介護」が約3.7兆円,「福祉等」が約8.3兆円となっているが,最も伸び率が大きかった項目は,意外にも「年金」である。財務省の資料によれば,「年金」が対前年度比2.2%増で,次いで「福祉等」が1.9%増だ。一方,「医療」は0.8%増,「介護」は0.2%増にとどまり,当初予想されていたような医療や介護の大幅な伸びは見られなかった。

 この背景には,年金給付額の改定制度が深く関係している。年金の支給額は本来,物価等の上昇に応じて増額されるが,少子高齢化による年金財政の悪化を緩和するため,「マクロ経済スライド」という仕組みが導入されている。これは,物価や賃金の上昇率から一定の調整率を差し引いて年金額を改定する仕組みで,年金財政の破綻を回避するために一定の抑制をかけるものである。2025年度もマクロ経済スライドは発動されるが,それでも名目上のインフレ率など自体がプラスとなっているため,年金給付額は対前年度比でやや増加し,結果的に最も大きな伸び率を示すこととなった。

 一方で,医療や介護に関しては,報酬改定サイクルが2~3年ごとであることが影響している。2024年度に同時改定が行われた後,2025年度は大きな見直しがなく,結果として伸び率は抑えられる形となった。特に介護の報酬改定は非常に複雑であり,施設サービスや在宅サービスなど多岐にわたる項目の再評価が必要となるが,ここでは新たな改定がほとんど見送られている状況だ。こうした改定サイクルの影響が,年金と医療・介護の予算伸び率の違いを生み出している。

 また,インフレ経済への移行が社会保障費に与える効果も見逃せない。名目GDPが伸びれば,対GDP比で見た社会保障費の増加分は相対的に圧縮できるという特徴がある。内閣府の政府経済見通し(2024年12月)によると,2025年度の実質GDP成長率は1.2%にとどまるものの,インフレの影響で,名目GDP成長率は2.7%と予測されている。医療費や介護費が若干伸びても,名目GDPの伸びがそれを上回れば,対GDP比では抑制できるというわけだ。実際,財務省の資料と内閣府の政府経済見通しを統合してみれば,「医療」が対GDP比でマイナス1.9%,「介護」も同様にマイナス2.5%となることが予想でき,インフレの影響で,医療費・介護費が実質的に削減される可能性が高いことが分かる。

 もっとも,インフレの影響で長期金利にも上昇圧力がかかるなか,国債の利払い費の増加などのルートを通じて,財政膨張の圧力が高まる可能性も否定できない。そのため,インフレそのものを“財政改善の特効薬”として捉えるのはリスクがあり,引き続き,財政健全化の努力を行っていく必要があろう。

(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article3780.html)

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