世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
日本銀行の多角的レビュー報告書について
(国際経済政策研究協会 会長)
2024.12.30
日本銀行(以下,日銀)は,植田総裁にとって初めての参加であった2023年4月の金融政策決定会合において,「わが国経済がデフレに陥った1990年代後半以降,25年にわたって実施された様々な金融緩和策が経済・物価・金融の幅広い分野と相互に関連し,影響を及ぼしてきた」ことに鑑み,「多角的レビュー」を行うことを決定した。その実施方針については,同年7月に発表された説明文のなかで,(1)既存の調査・サーベイ等の活用,(2)「金融経済懇談会」等における意見交換,(3)ワークショップの開催等,(4)海外識者との意見交換,を行う計画を明らかにし,更に,多角的レビュー専用ウェブサイトを開設した。レビューの結果は本年12月の政策決定会合で報告書に取りまとめられ,公表された(注1)。植田総裁のもとでレビュー作業をされた各位のご尽力に敬意を表しつつ,以下では紙面の制約に鑑み論点を二つに絞って報告書についてコメントする。
2%の物価安定目標
筆者は,日銀が多角的レビューを行う方針を決定する前年である2022年の秋,「日銀,政策運営の枠組みの見直しを」と題した小論(注2)を公表した。このなかで,米国連邦準備制度(FRB)は2012年,当時のバーナンキ議長に促され,物価上昇率2%を目標とすることを公表したが,バーナンキはFRB議長退任の後,「嘗ては学者として,そしてFRB議長として,このインフレ率目標を提唱したのは,このアプローチの透明性とコミュニケーション上の利点に基づくものであり,2%という数値の選択にはさほどこだわりはなかった」(注3)と述べたことを紹介した。その上で,2013月1月に導入された日銀の金融政策運営の基本的な枠組みについて見直すことが日銀および政府にとっても重要な課題と思われると指摘した。
更に,世界経済評論 2023年3-4月号に掲載された特別論考「中央銀行の使命と苦悩」(注4)のなかの一章「日本銀行,物価目標の見直しと透明性・説明責任の貫徹が必要」において以下の指摘を行なった。
「欧州中央銀行は消費者物価上昇率2%の数値目標を選定した理由として以下の3つを列挙している。
- (1)ユーロ圏諸国間のマクロ経済の不均衡がより円滑に調整され,個々の国のインフレ率が持続的にマイナス領域に陥ることが回避されること。
- (2)あまりに低いインフレ率を目標とすると,賃金の下方硬直性のため,失業率を過度に増加させる危険性があること。
- (3)物価指数に正の測定バイアスがあり,真の物価上昇率は測定された値よりも低い可能性があること。
日本では,(1)は理由にならない。(2)で指摘された賃金の下方硬直性は日本では顕著でない。(3)については,日本の消費者物価が2%もの正の測定バイアスがあるとは見られない。日本の物価目標値が他の主要国と異なると円の為替相場が撹乱するリスクが高まるという議論もあるが,為替相場の変動要因としては,諸国間の実質金利差の予想の変化の方が重要であろう。
そもそも,日本経済のバブル形成期において消費者物価は1987年0.1%,1988年0.7%,1989年にいたっても2.3%にとどまっていた。この時期に消費者物価上昇率2%が金融政策の目標であったならば,日本の金融政策は実際よりも更に拡張的に運営され,バブル崩壊後の経済の下降は現実よりも更に急角度であったろう」。
そのうえで,筆者は日銀の物価目標について再検討する必要があると主張したのであった。
日銀は多角的レビューにあたって意見を広く集めることを目的として,インターネット・郵送による意見募集を実施したので,筆者は上述の論考も参考にするよう,インターネットで意見を提出した。こうした経緯もあって,今般公表された日銀のレビュー報告書のなかに盛り込まれた「先行きの金融政策運営への含意」の箇所における2%の物価安定の目標に関する記述に特に注目した。そこには,「消費者物価指数のバイアスは,全体として縮小してきたとみられるものの,中央銀行がプラスの物価上昇率を目指すべきであるとする論拠として,引き続き妥当性を有していると考えられる。こうした理解は,主要先進国の中央銀行間で共有されており,その多くは物価目標を2%に設定している。そのうえで,金融政策運営にあたっては,その時々の物価上昇率の実績だけではなく,物価変動を規定する諸要因を見極め,物価の基調を捉えていくことが重要であるとの認識も広く共有されている。以上を踏まえると,わが国でも,引き続き,2%の「物価安定の目標」のもとで,その持続的・安定的な実現という観点から,金融政策を運営していくことが適切である。」と結論づけられている。
上掲の説明は踏み込み不足であり,落胆した。この点,報告書に盛り込まれた日本の有力学者たちの講評のなか,ただ一人,慶應大学教授の鶴光太郎氏が日銀の物価目標2%の問題点を鋭く指摘されていることを高く評価している。
金融政策と不平等
筆者は,所得分配や富の分布などの面での格差拡大と2%の物価上昇率達成を目指した日銀の金融政策運営との関係も多角的レビューに含めるべきである,という意見もインターネットで日銀に提出し,更に植田総裁ほか日銀の役職員の一部の公的メールアドレス宛でも見解を伝達した。
日銀はレビューの報告書のなかで,インターネット・郵送による意見募集によって,計172件の意見を受領したと記述している。しかしながら,日本銀行の金融政策と不平等(monetary policy and inequality)に関する検討を促す意見が私から提出された事実は明記されていない。全部の意見の開示には問題があるかもしれないが,それらの重要なポイントは日銀のウェブサイト上で公開されることが望まれる。
米国ミネアポリス連銀シニアエコノミストのマッケイとマサチューセッツ工科大学教授のウォルフは,2023年冬に発表した共同論文「金融政策と不平等」(注5)において,達観すれば,金融政策の緩和によって「低所得世帯は労働市場の逼迫から,中流世帯は住宅ローン金利の低下から,富裕世帯は資産のキャピタルゲインから恩恵を受ける」というようにチャンネルの違いはあるが,金融政策が様々な所得階層に及ぶす経済効果は全体として捉えればおおむね均等であると主張しながらも,価格変動の激しい消費財などに相対的により多く依存する傾向がある低所得者層には金融政策運営が及ぼす所得分配面の問題が無視できない可能性があるとして,さらなる研究の必要性を指摘している。
この間,英国オックスフォード大学教授のヨハネセン,デンマーク国立銀行シニアエコノミストのジョルゲンセンなどが発表した共同論文(2023年7月)では,緩和的な金融政策が所得分配に及ぶす影響に関する計量分析の結果として,株式を多く保有する高所得者層では株式市場所得の増加によって利子所得の減少による損失よりも多くの利益を得るが,金融資産を主に銀行預金として保有する低所得者層では金融所得が減少し,雇用所得を含む全体的な所得分配が不平等化することが報告されている(注6)。
日銀のレビュー報告書のタイトルには英文では“from a Broad Perspective”と,和文の「多角的」よりも味わいのある表現が加えられている。ならば尚のこと,日銀(そして日本の学界)でも,この問題に関する研究がすすめられ,その政策的含意が検討されることが望まれる。
[注]
- (1)日本銀行,「金融政策の多角的レビュー(Review of Monetary Policy from a Broad Perspective)」,2024年12月
- (2)重原久美春,「日銀,政策運営の枠組みの見直しを」,世界経済評論インパクト,2022年9月12日
- (3)David Wessel, “Alternatives to the Fed’s 2 percent inflation target”, Brookings Research, 7 July 2018
- (4)重原久美春,「中央銀行の使命と苦悩」,世界経済評論,2023 年3-4月号
- (5)Alisdair McKay and Christian Wolf, “Monetary Policy and Inequality”, Journal of Economic Perspectives, Vol.37, No.1, Winter 2023, pages 121~144“https://pubs.aeaweb.org/doi/pdfplus/10.1257/jep.37.1.121
- (6)A. Andeesen, N. Johannnesen, M. Jorgensen, J. Peydro, “Monetary Policy and Inequality”, Journal of Finance, Vol.78, Issue 5, October 2023, https://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1111/jofi.13262
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