世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.2673
世界経済評論IMPACT No.2673

日銀,政策運営の枠組みの見直しを

重原久美春

(国際経済政策研究協会 会長・元OECD 副事務総長・チーフエコノミスト)

2022.09.12

物価安定の定義とインフレ目標の意義

 筆者が経済協力開発機構(OECD)経済総局長・チーフエコノミストとしてパリ本部に着任直後の1992年6月,記者会見で最初に受けた質問は「物価安定」の定義に関するものであった。これに対して,「物価統計に存在する計測バイアスなどを考慮すると,消費者物価の場合,国によって違いはあろうが,達観すれば年率2%くらいまでの上昇が“物価の安定”といえる」というのが私の即座の回答であった(注1)。物価安定を数値で説明したOECDの見解発表は以前に行われたことがなかったので,欧米の経済新聞が私の見解を翌日報じた。

 当時,消費者物価の計測バイアスに関する研究としては,米国ではゴードンの1.5%,ルボウ等の1.0%などがあった。その後OECD経済総局は,「ゼロ・インフレ」の得失と「最適インフレ率」の検討を行って,OECDエコノミック・アウトルックの1994年6月号で発表した。当時,最も低いインフレ数値目標圏を採用していたのはニュージーランド中央銀行の0〜2%,フィンランドが2%,スウェーデンが1995年について1〜3%,カナダが1998年まで1〜3%,そして英国が当面1〜4%としている実情を紹介し,これらは「実践的物価安定」(“practical price stability”)を目指すものであると,コメントした。

 米国では,連邦準備制度理事会(FRB)の政策立案者達がインフレ率の目標値を2%とすることで1996年ころ内々に合意していたが,議長であったグリーンスパンの強い要請により対外公表はされなかった。FRBは2012年,当時のバーナンキ議長に促され,インフレ率2%を目標とすることを公表した。ついで,日本銀行は,2013月1月の金融政策決定会合において,消費者物価の前年比上昇率2%を政策目標とした。

 1996年4月,欧州における金融政策運営の枠組みをテーマとした国際会議をドイツ・ブンデスバンクが開催した。OECDチーフエコノミストであった筆者は基調講演で総括的な見解を述べた。この中で筆者は,OECD主要国における1960年代以降の金融政策運営を概観した後,特にマネーサプライ目標,インフレ数値目標,アンカー通貨に対する為替相場ベッグ,名目GDP目標などのオプションについて検討の上,こうしたルールに従った金融政策運営はいずれも,金融面と実体経済面の双方における不測の事態に面して物価安定という金融政策の最終目標を達成するために万全な枠組みとは言えない,如何なるルールを採用するにしてもある程度の恣意(a certain degree of discretion)をもちながら中長期的な観点に立って運営すべきであり,その際には,金融当局の独立した政策決定に関する国民の支持を得るために不可欠である透明性の確保と説明責任の貫徹が重要である,と主張した(注2)。

 もし,ブンデスバンク講演の場にバーナンキがいて,インフレ数値目標に関する筆者の講演を聞いていたらどんな反応を示したか。因みに,バーナンキはFRB議長退任の後,「嘗ては学者として,そしてFRB議長として,自身がインフレ目標を提唱したのは,このアプローチの透明性とコミュニケーション上の利点に基づくものであり,2%という数値の選択にはさほどこだわりはなかった」と述べている(注3)。

金融政策運営の枠組み再検討の動き

 米国では,FRBの予測を大きく上回るインフレの加速に面して,その不適切な経済分析,政策対応の遅れ,対外コミュニケーションの不足などが批判の的になり,従来の政策運営の枠組みの欠陥を指摘する見解が国際通貨基金(IMF)や外部の経済専門家の間でも強まっている(注4-1,4-2)。

 英国では,インフレ急上昇に対処するためのイングランド銀行の行動が遅すぎたとして,ベイリー総裁をはじめとする首脳陣の責任を追求する動きが保守党議員たちから出ている。こうした中,今般英国首相に選任されたトラス氏は就任前に,「インフレに対処する最良の方法は金融政策であり,イングランド銀行の任務(mandate)を変更し,将来的には,インフレ抑制に関して世界で最も力量のある中央銀行と肩を並べるようにしたい」と語ったと報じられている(注5-1,5-2)。

 また,オーストラリアでは,準備銀行(RBA)の経済予測や金融政策の失敗が批判される中,チャルマーズ財務大臣が本年7月に声明を発表し,「我が国は,複雑かつ急速に変化する経済環境と様々な長期的な経済課題に直面している。金融政策の枠組みを最良のものとするため,RBAのインフレ目標,異なる政策目的間のトレードオフ,金融政策手段,内部統治,組織の閉鎖性および説明責任の体制など,幅広い見直し(review)を行う」ことを明らかにした(注6-1,6-2)。

 日本銀行は,政策目標とした消費者物価前年比上昇率2%を持続的な形で達成すことにこれまで失敗してきた。本年7月に公表された「経済・物価情勢の展望」レポートにおいては,政策委員の大勢見通しでは,国際的な資源価格の高騰,円対ドル相場の大幅下落などに伴う円建て輸入価格の上昇を主因に,消費者物価(除く生鮮食品)の前年比が2022年度は2%を若干上回るものの,2023・24両年度は再び物価目標値を大きく下回ると見込まれている。欧米諸国では,このところ多くの専門家の予想をはるかに上回るペースでインフレが加速し,金融政策の目標値を大きく上回っているが,日本の消費者物価は目標値に対して下ぶれる趨勢から脱却する中期的な展望が得られておらず,2%のインフレ目標を掲げてから10年近くを経た日銀の金融政策運営に対する信頼が失われている。

 本年2月に公表されたIMFの協定第4条に基づく対日審査報告書では,「GDPギャップが2024年に解消し,2025年から2027年にかけてゼロ,失業率は2.4%で推移するなかで,消費者物価上昇率は1.0%程度にとどまる」というIMFスタッフの中期見通しをもとに,理事会で金融政策論議がおこなわれた(注7)。同中期見通しでは,日本国民一人あたり実質GDP成長率は1.2%内外のプラスで推移するとされている。これより高いグリーン経済成長と所得分配の公正化は,構造政策,環境保全政策,財政政策などの組み合わせで目指すべきものであり,金融政策の主目的ではない。こうしたなかで日本の消費者物価上昇率2%を持続的に達成するためには,金融面からの刺激策を更に追加し続けることがIMF中期見通しの一つの政策的インプリケーションである。そもそも2%の消費者物価上昇率が政策目標として適当かどうか,という問題があるが,日本銀行の物価目標自体の妥当性が議論された形跡は公表されたIMF報告書には見受けられない。

 2013月1月に導入された日銀の金融政策運営の基本的な枠組みについて,本稿で紹介したブンデスバンク講演会における筆者の主張,消費者物価上昇率2%目標に関するバーナンキ発言,更にはIMF対米国審査報告における提言(注8-1,8-2)などをも参考にして,見直すことが日銀および政府にとっても重要な課題と思われる(注9)。

経済・物価の展望に関する作業の高度化を望む

 消費者物価上昇率2%目標を決定した2013月1月の日銀の金融政策決定会合では,政策運営に当たって,⑴先行き2年程度の経済・物価情勢について蓋然性が最も高いと判断される見通しが物価安定のもとで持続的な成長の経路を辿っているか点検する,⑵より長期的な視点を踏まえつつ,物価安定のもとでの持続的な経済成長を実現するとの観点から様々なリスクを点検する,⑶これら2つの「柱」に基づく点検を踏まえた上で,当面の金融政策運営の考え方について整理し,展望レポート等を通じて定期的に公表する,ことも決められた。

 前述のように,本年7月に公表された「経済・物価情勢の展望」レポートにおいては,消費者物価は2023・24両年度には再び目標値を大きく下回ると見込まれている。しかし,この展望レポートには,物価の基調に重要な影響を及ぼすマクロ的な需給ギャップなどの見通しが数値で示されていない。

 これに対して,イングランド銀行の金融政策報告(注10)では,実質GDP成長率と消費者物価上昇率のほか,GDPギャップ率,失業率,の4つのマクロ経済指標に関して,先行き3年間の基本見通しの数値が一覧表で発表されている。更に,本年8月に公表された報告では,今後における物価目標達成の蓋然性に関する国民の理解に役立つよう,資源価格の将来の推移に関して基本見通しとは異なる代替シナリオを想定した場合に見通される,これら4つのマクロ経済指標の数値も発表された。

 日銀は,こしうたイングランド銀行のシナリオ作業や前項で紹介したIMFの中期予測作業をも参考にして,政策運営の二つの「柱」に関する作業をより高度化し,これをもとに政策論議を行い,その成果を「経済・物価情勢の展望」レポートなどを通じて国民に開示することが望まれる。

[注]
(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article2673.html)

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