世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.3076
世界経済評論IMPACT No.3076

戦時下ベトナム農村の記憶:「声」の継承をめぐって

高橋 塁

(東海大学政治経済学部 教授)

2023.08.21

戦争の記憶

 記録的な暑さの中で,今年も終戦記念日を迎えた。日本の人々にとって夏は過去の大戦を振り返る季節でもある。しかしながら夏の暑さが年々強まっていくのとは裏腹に,薄らいでいく焦燥感を覚えるのが戦争の集合的記憶である。

 私が子どものころ,祖父は日中戦争に兵士として従軍した経験をしばしば話してくれた。従軍中の冬に寒さで倒れたこと,ハエがたかる中での軍隊の食事の様子など,様々な話を聴いたが,子どもであった私に話すということである程度内容を選んでいたかもしれず,実際にはさらに過酷な体験をしていたことは想像に難くない。それでも当時幼かった私が戦争とはどういうものか理解するのに十分であった。その祖父も逝ってからもう何年にもなる。

 この5月に開催された広島サミットでは,賛否両論あったがG7の各国首脳が原爆資料館を訪れ,被爆者の方の「声」を聴く機会があった。こうした戦争の悲惨さは体験した人々の「声」があるから継承される。だが日本では,こうした「声」が高齢化とともに失われ,戦争の体験が風化してしまうことが以前から懸念されている。

 振り返ると20世紀は戦争の世紀であった。二つの大戦と東西の冷戦を背景にした様々な代理戦争が行われた。ベトナム戦争もその一つである。1954年に第一次インドシナ戦争は終結したが,のちにフランスに代わってアメリカによるベトナム介入を招き,泥沼のベトナム戦争となったのは衆知の通りである。この戦争による死者数も2008年の推計ではかなり上方修正され1955年から1975年まででおよそ300万人とされた(注1)。

「声」の理解と継承

経済学と戦争体験の「声」

 しかし後述のように無味乾燥な数字だけで戦争の過酷さや戦時下の人々の生活実態を知ることには限界がある。私は経済学を学んだ者としてベトナムの農村社会にアプローチしているが,経済学では理論(仮説)とデータを用いた実証から因果関係の説明が厳しく求められるうえに,個別ケースは捨象し,データから社会・集団の平均的な特徴,傾向を議論することが一般的である。

 ベトナム戦争については,死者,枯葉剤による長期的な人的被害は相当なものであることは疑いなく,これらを仔細に検討しなければ,戦争が経済・社会に与える影響の把握は覚束ない。しかし,こうした情報は推計が何度もなされているように数字として把握するのは容易ではなく,またたとえデータで得られても人的損失に伴う戦争の具体的影響(例えば死亡や枯葉剤被曝に至る経緯とその影響など)を深く理解できるわけでもない。被害を被った人々が置かれていた環境を個別の「声」として聴き,理解を積み重ねることで初めて現実認識を深め,仮説を設定し,実証する過程へとたどりつける。

ベトナム農村で薄れる戦時下の記憶

 ゆえに経済学など社会科学の分野では,仮説をたてて実証を行うという研究プロセスが入っていることで,むしろ研究者は謙虚に「声」を聴いてバイアスのない理解に努めること,後世に「声」の記録を残すこと,にもっと真剣になる必要がある。しかしながら,戦争体験については,「声」を聴き,記録を残すことが先の日本のみならずベトナムでも次第に困難になってきている。その理由としてあげられるのは,やはりベトナム戦争に従軍した人々,戦時下で家庭を守った人々が高齢化していることである。ベトナム戦争は1975年に終結し,あと少しで半世紀が経過する。戦争で過酷な現場となったメコン・デルタや中部農村の人々は高齢化が進み(拙稿『世界経済評論IMPACT』,No.2265」参照),そうした「声」を聴くために残されている時間は少ない。まして戦時下の経験は語ることがただでさえ苦しく憚られるものも多い。語り部の心情を慮り,それを真摯に受け止める覚悟が聞き手にも必要である。

 さらにメコン・デルタなど旧南ベトナムの農村部については,当時の社会経済や生活についてアメリカ人研究者の調査記録が残されてはいるが,南ベトナム解放民族戦線との争いの中で必ずしも十分な調査ができていたわけではない(注2)。とりわけアメリカが撤退した後,海外の研究者は農村に入れなかったのでベトナム戦争直後の農村についてはわかっていないことも多い(注3)。ゆえに「声」を聴くことで当時の農村の様子を把握し,記録することは極めて重要となってくる。

 経済発展が進むベトナムでは,発展の華やかさの陰でベトナム戦争は過去のものとなり,人々の記憶からも薄らぎつつある。現在のベトナム経済がなぜここまで急速に成長し得たのか真に理解するためにも,そしてロシアのウクライナ侵攻が続く今日の国際社会に対する警鐘としても,こうした「声」を重視,理解して継承する問題に向き合わなければならない。

[注]
  • (1)Obermeyer, Z., C. JL Murray and E. Gakidou(2008) “Fifty Years of Violent War Deaths from Vietnam to Bosnia: Analysis of Data from the World Health Survey Programme.” BMJ 336(7659), 1482-1486.
  • (2)実際にアメリカの支援の下で行われた南ベトナムの1960/61年の農業センサスは,調査自体が南ベトナム政府の勢力が強いところに限定され調査としては不完全であった。
  • (3)村野勉(1999)「アメリカ人研究者が観察したメコン・デルタ─1950年代末〜70年代初めの農村調査─」出井富美・竹内郁雄(編)『ベトナムの農業・農村の改革と変容』アジア経済研究所。
(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article3076.html)

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