世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.2966
世界経済評論IMPACT No.2966

バイデン政権のインフレ抑制法(IRA)をどう見るか:EUの視角

田中素香

(東北大学 名誉教授)

2023.05.22

 バイデン米大統領は2022年8月,新たな歳入・歳出法(通称インフレ抑制法Inflation Reduction Act: IRA)に署名した。気候変動対策に3690億ドル(約50兆円)の補助金を2023年から給付する。EUはグリーン化で世界の先頭に立っているので,歓迎すべきところ,米国と通商戦争か,という雲行きになった。IRAの保護主義が原因だ。

 米政府は電気自動車(EV)の購入者に補助金7500ドル(約100万円)を支払うが,そのEVは北米での製造に限るという。原産地規則を使った保護主義であり,WTOの自由貿易ルールに反する。EV用バッテリーも条件付きだ(バッテリー部品や使用する希少金属について一定割合を米国や米FTA諸国から調達,という条件が後に明らかにされた)。EUではIRA批判が巻き起こり,昨年12月マクロン大統領が訪米しバイデン大統領に苦情を伝えた。

 IRAの保護主義への批判はこの世界経済評論IMPACTでは馬田啓一氏が論じており,参考になる(「バイデン政権の汚れた通商政策」本年2月6日,「EV優遇策をめぐる日米欧の落としどころ」5月1日)。日経コメンテーターの小竹洋之氏は「オブラートに包む米国第一」とバイデン政権を批判し,結論として,「国家の介入が行き過ぎ,自国経済のゆがみや世界経済の分断を増幅するのも問題である。……せめてEVの競争条件や関税自由化への消極姿勢などを修正できないか」と述べて,広島サミットで岸田首相がバイデン大統領に「もの申す」よう求めている(5月18日電子版)。

 本年3月フォンデアライエンEU(欧州委員会)委員長がバイデン大統領を訪問し,共同宣言を発表したが(3月10日),そこに保護主義批判はない。「我々のパートナーシップは同じ価値と原則を共有し,……米欧は将来のクリーンエネルギー経済をうち立て,経済的国民的安全保障のチャレンジに取り組む」と冒頭で述べる。その後ろに各論が3つある。

 各論[1]「将来のクリーン経済を建設する」では,米EUの方向は一致しているという。

  • ① 米IRA,EUのグリーンディール産業計画はともにグローバルを見据えた気候変動対策であり,良質の雇用・技術革新を目指す。
  • ② 双方は協力してサプライチェーンと製造業の強化を目指す。
  • ③ 双方は重要な鉱物とバッテリーのサプライチェーンの多角化のために協力する。EUで採択または加工される重要な鉱物がIRAのクリーン自動車の要求に沿うようにするために双方が交渉を開始する。重要な鉱物のサプライチェーンにおいて望ましくない戦略的依存を減らす(中国を意識)。
  • ④ 通商・投資フローの混乱を避けるために米EUが対話し,中国などの非市場的政策に関する情報共有を強化する。
  • ⑤ 鉄鋼・アルミ交渉を23年10月までに決着させる。
  • ⑥ 発展途上国のグリーン化に米EU,G7および世銀,地域開銀などが協力する。

 各論[2]は「ウクナイナに対するロシアの戦争を終わらせるべく団結する」,各論[3]は「経済安全保障と国の安全保障を強化する」と銘打って,米EUの対ロシア・対中国の政策の特徴付けとそれに対応する米EU協力について列記する。ここではタイトルのみ記す。

 フォンデアライエン委員長は「グリーン化至上主義」でEUを牽引してきたが,バイデン政権はそれを利用してIRAをグリーン化第一に仕上げ,巧みに保護主義をフォンデアライエン委員長に飲ませたとの評価もある。しかし,同委員長下のEUはロシア制裁・ウクライナ支援,さらに中国批判でも高いレベルの活動をバランスよく進めている。IRAでは米EUで検討委員会を作り,シンクタンクBruegelも10人を動員してIRAを分析し,保護主義の短気のデメリットを気候クリ-ン化の長期利益が凌駕すると結論を出した。そうした多様な活動が米EU共同声明に反映された。わが国の保護主義批判の視角の外の多様な論点が浮かび上がっている。

 第1に気候変動対応・グリーン化の重要性である。EUの議論は,当初の保護主義批判からバイデン政権とIRAを支持する論調に変わった。トランプ政権(パリ協定から離脱)とは「月とすっぽん」である。また,総額3690億ドルのIRAは年400億ドル程度だが,EUは8000億ユーロ超のコロナ復興基金(グリーン化に4000億ユーロ弱)・EU予算もグリーン化に10年間で5000億ユーロ・加盟国レベルでもグリーン化補助金がいろいろ,と指摘され,EU側は反論できなくなった。

 わが国でもEVを購入する消費者に通常65万円まで補助する。EVの蓄電池を家庭用の電力に使用できるなどの条件を満たせば最大85万円を出している。

 EUもしぶとい。国家補助金ルールを緩和して,加盟国が自国企業に補助金を支払いやすくした(TCTF:新国家補助システム)。ドイツはそれを利用して,米国に進出を決めていたバッテリー工場に数億ユーロの補助金を出して工場建設を国内に振り替えさせた。年間百万台のバッテリーを供給できる。グリーン補助金を巡る大西洋対抗であり,上限はないようだ。

 第2はWTOルールである。それが有効だったのは,ルール違反が許されなかった時代,つまり米国一極あるいは米欧の世界経済支配の時代だったのではないか。ドーハ開発ラウンドは破綻し,米国は上級委員の補充を認めなくなった。中国のように,国有企業に無制限に国家補助金を支払う国に有効な取り締まりはできない。となると,ルールはあってなきがごとし。WTOルールで説教できる時代は過ぎ去ったのではないか。

 第3も時代転換と関係する。米国を取り巻く世界情勢,とりわけ「ツキジデスの罠」への米政府の対応である。製造業を米国に取り戻さなければならない。2024年の大統領選挙で労働者階級を民主党に取り戻さなければならない。IRAと前後して半導体企業の投資への金融支援も法制化された。フィナンシャルタイムズの調べでは,IRA法案が成立してから23年4月中旬までに米国で半導体・クリーン系製造業の1億ドルを超える投資の総額は2000億ドルを超え(うち約3分の1は外国企業の投資),19年の20倍のペースという。「新しい産業革命を起こそう」というバイデン大統領の取り組みが勢いを増している。関連してサリバン大統領補佐官の興味深い演説があるのだが,IMPACTの別稿で取り上げたい。

(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article2966.html)

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