世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
キャッシュレス決済で得るもの,失うもの
(東北学院大学 教授)
2022.10.24
1994年に放送された「お金がない」というテレビドラマをご存じだろうか。親が残した多額の借金を背負う青年が様々な苦難に直面しながらも,生き馬の目を抜く外資系保険会社で出世をしていくストーリーであるが,その第一話のタイトルは「ブタの貯金箱」であった。
話の内容は実際にドラマをご覧いただきたいが,主人公がビジネススーツを購入するために,主人公の弟が大切にしているブタの貯金箱を地面にたたきつけて割るシーンが話の終盤にある。筆者は貯金箱をたたきつけて割った経験はないが(ちなみに貯金箱はもっぱら「○○万円貯まる缶」であった。金額通りに貯金できたことは一度もない),現金が飛び散るシーンは現在でも鮮明に記憶に残っている。
新型コロナウイルスの感染拡大は,近年進んでいる現金の衰退とキャッシュレス決済の台頭に拍車をかけている。経済産業省の推計によれば,2021年の我が国のキャッシュレス決済比率は32.5%に達し,統計開始後初めて30%を越えた。これまで決済手段としてはマイノリティであったキャッシュレス決済が,マイノリティではなくなるクリティカル・マス(分岐点)越えたことは重要な意味を持つであろう。キャッシュレス決済手段としては,依然としてクレジットカード決済が高いシェア(85%)を占めるものの,デビットカード決済やQRコード決済もシェアを伸ばしており,わが国でも決済手段の多様化が着実に進展している。
筆者もコロナ禍において格段にキャッシュレス決済の利用頻度が増加した。レジでの支払い時間が短縮されるとともに,家計管理がより容易になったのを日々実感している。昨今,非接触でのやり取りが推奨される中で,現金に触れることなく決済できることは,消費者ならびにサービス提供者双方にとってメリットは大きいといえよう。
しかしながら,どんなに優れたものにも必ずデメリットがあるように,キャッシュレス決済の便利さには看過できないデメリットがある。それは,私たちが「支払う痛み」に鈍感になるということである。例えば,私たちが労働の対価として現金を得て,その現金を用いて商品やサービスを購入するとき,何か大切な所有物を手放す気持ちにならないだろうか。同じ1000円の買い物であったとしても,現金決済はキャッシュレス決済と比べて買う喜びと同時に支払う痛みもより強く感じることとなる。一方でキャッシュレス決済は,買う喜びと支払う痛みの間に緩衝地帯(喜びと痛みにタイムラグが生じる)を作り上げ,そのことが私たちの支払う痛みを弱めることとなる。冒頭のテレビドラマにおいても,主人公がスマートにビジネススーツをクレジットカードで購入したのでは,弟の大切な貯金を使ってまで現在の境遇を変えようとする主人公の強い意志を視聴者が感じることはなかったであろう。
多くの実証研究によれば,現金よりクレジットカードを使う消費者のほうが,①買い物でいくら使ったかを忘れやすく,②何を買うかを決めるのに十分な時間をかけず,③高い買い物をすることに躊躇せず,④買い物の回数が多くなることが明らかになっている。このことは,デビットカードやモバイル決済などの他のキャッシュレス決済に関する研究でも同様の結果が得られている。また,最近行われた神経科学の実験では,現金ではなくクレジットカードで支払いを行うと,コカインなどの中毒性薬物を使ったときと同じ脳の報酬中枢が活性化することが明らかになっている。ストレス解消法として衝動買いを繰り返す人がいるが,キャッシュレス決済はそれをエスカレートさせる危険性がある。貨幣の脱物質化は日常生活においてよいことのように思えるが,単に利便性のみに注目するのではなく,私たちの身体に及ぼす影響についても注意を払う必要がある。
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