世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.2526
世界経済評論IMPACT No.2526

リフレイン

大東和武司

(関東学院大学 客員研究員・広島市立大学 名誉教授)

2022.05.09

 覚和歌子の詩「リフレイン」(注1)に次の一節がある。

   くりかえし 咲くつぼみ  くりかえし 実る枝

      (略)

   そのたびに はじめまして そのたびに なつかしい

 1930年代に国際的評価を得ていた数少ない日本の経済学者に柴田敬がいる。マルクスの資本主義分析とワルラスの一般均衡論との総合を試みた英文論文(1933)は,オスカー・ランゲがReview of Economic Studies(1935年6月号)で言及し,国際的論争を起こし,ランゲの思想と理論に大きな影響を与え,1936年のハーバード留学に際してはシュンペーターが万端の受け入れをするなど,国際的評価は高いものであった。

 柴田敬は,戦後いち早く,資源食いつぶしの文明に対して「壊禍の法則」を主張し,資源問題や環境問題の重要性を指摘した(注2)。遺稿「核戦争勃発の危険から人類を救う道」は,1983年から84年末の原稿を公文園子がまとめた(注3)。当時の米ソの対立が経済学上の対立に由来し,その意味において自らの責任を意識してのゆえだった。つまり,それぞれ本人の意図とは違う側面はあるにしても,スミスは個の強調によって自愛主義に過ぎ,マルクスは生産的労働の喜びということを忘れ,ケインズは需要拡大主義の伝播をもたらし,その結果,柴田のいう本源財である原油など天然資源,存続発展のための物的基礎の窮迫という真相のもとに人間の物的生産力の過剰という現象が生じ,ひいては対立に至り,われわれは大きな問題を引き起こしてきた。この真相と現象との間の乖離メカニズムを解明することが経済学の役目であるのに,その正反対のことをしてきたという。この論及を1951年以降続け,遺稿に至った。結論は「核兵器を兵器としては“役に立たないもの”に変質させるハードウエアとソフトウエアの技術開発」しかないとの指摘だ。それは,戦後,自ら蓄電池の改善発明をもとに軽量蓄電池会社を起業し,さらに海流(潮流)発電の具体化など新技術開発構想をおこなった熱意に通じる。

 戦争は「過程」であり,平和は「状態」であるといったのは,中井久夫(注4)だ。両者は対象的概念でない。戦争は,無秩序性が高く自己収束性に乏しく,エントロピーは増大する。平和は,秩序性のためにエネルギーを費やし,負のエントロピー(ネゲントロピー)を注ぐ必要がある。しかし,秩序性が高すぎれば,戦争準備状態の秩序であり,「しなかやでゆらぎのある秩序」が望ましい。ネゲントロピーを作用させるためには,呼吸と同じく,無秩序(高いエントロピー)を排出しなければいけない。

 この排出方法が,戦争,侵略であってはならないし,スラム,差別などであってもならない。排出の智慧を学び,活かさなければならない。それに際して,柴田敬が指摘した経済哲学をふまえた経済学の有用性,働くことの喜び,他の人びとの手段として役に立つものをつくること,そのために心身の活動をする喜びや満足,という視点は大切であろう。他へのため,社会へのためという意識が大きな視野でのイノベーションを生み,その技術開発が社会的包摂,社会的一体化につながるという意識である。こうした視座は,エリノア・オストロムの「コモンズ」,会社のあり方の問い直し,また権力の強制がない相互扶助の可能性を問うアナキズム的な生き方の模索などにも通じていると思われる。

 議論は「過程」で,対話は「状態」である(注5)。相互性があり,ポリフォニック(多声的)で,さまざまな意見を許容し,響き合う空間での対話(ダイアローグ)は,信頼構築のためにも,ネゲントロピーの作用のためにも,大切なのだろう。「いま」の対話の「くりかえし」が。

 冒頭の覚和歌子の詩は,次の言葉で閉じられている。

 何度でも くりかえす

 このときは たったいま

 このいまは いちどだけ

[注]
  • (1)覚和歌子の詩による混成合唱曲集『等圧線』(作曲 信長貴富)終曲4として所収
  • (2)伊東光晴「柴田敬—一途な人」(『大道を行く―柴田敬追悼文集』日本経済評論社,発行人:鹿島郁子・長坂淳子,非売品,1987年,pp.62-64)。なお,「壊禍の法則」は,「近代的な生産技術が資源破壊的なものであった」とし,「経済に及ぼす資源破壊の打撃的作用」について論及する。石炭や原油など資源を採掘すれば,その場所にはそれらは存在しない。採掘にはさらなる技術革新が必要である。資源を利用して作られた設備は年々に腐食,摩損する。これは,いつ果てるともなく,ますます強化される。柴田敬はこれら天然資源を本源財といい,本源財の価格は上昇する。「壊禍の法則」を経済学の体系に織り込まないといけないという(柴田敬『転換期の経済学 現代経済学批判』日本経済評論社,1978年)。こうした視点で,ケインズ派経済学,ポスト・ケインズ派経済学,現代的古典経済学,マルクス派経済学を批判している。スミスは,個を無視した当時の社会体制を是正する社会的要請に応えるがゆえに個を強調したが,それにとらわれすぎ,個を包む全体を危機におとしいれ,個も結局成り立ち得なくさせる欠陥を持っている。マルクスは,生産的労働の喜び(他の人びとの手段として役に立つものをつくるために心身の活動をする喜びや満足)を忘れ,生産的労働の外側(消費やレジャーの世界)にしか自由はないと結論し,生産的労働における賃金や人間性に反した労働環境や労働内容だけに傾斜しすぎた(柴田敬,同書,pp.108-115)。
  • (3)前掲書『大道を行く―柴田敬追悼文集』1987年,pp.3-15.
  • (4)中井久夫『戦争と平和 ある観察』人文書院,2015年,pp.8-13.
  • (5)斎藤環「平和のためにできることは―対話である」『「平和」について考えよう』別冊NHK100分de名著,2016年,pp.42-44.
(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article2526.html)

関連記事

大東和武司

最新のコラム