世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.2482
世界経済評論IMPACT No.2482

特許の経済的価値

鶴岡秀志

(元信州大学先鋭研究所 特任教授)

2022.04.04

 国の政策や識者の意見として,我国の特許件数が米中などに比べて劣っているとの言説が続いている。他方で,日経新聞3/21の記事「海外知財起訴,中国が阻止」では禁訴令(起訴差し止め命令:ASI)のことについて論評されている。この記事では,中国が自国に有利になるように,係争案件について海外での同様の訴訟を禁ずる裁判所命令を頻発する問題点を論じている。このASIだけではなく各国の司法制度による問題もある。特に米国の法律で海外へも適用されるDiscovery制度は知財係争では厄介な問題である。米国における訴訟でのDiscoveryとは,知財係争に限らず原告・被告が保有する証拠を口頭審理前に開示させる制度を指す。一旦,裁判所がDiscoveryを認定して命令を発出すると知財に関する機密情報をすべて開示しなければならない。開示を怠ると,その時点で敗訴になる場合があるので対策に頭を痛める米国独自のルールである。

 筆者は知財の専門家ではないが,いくつかの特許係争を経験した技術開発者の立場から特許の経済的価値を論じたい。

 ベンチャー企業にとって特許に関する費用は馬鹿にならない。出願費用¥14,000,審査請求¥138,000+請求項数×¥5,500,これ以外に特許登録,年金,海外出願・審査請求,特許事務所手数料が必要となり,概ね特許1本を20年間維持するには¥20百万〜30百万という金額が必要になる。この金額には特許権利者,つまり企業の人件費,事務管理費は含まれない。特許は審査請求前と査定後(特許として認められることを査定という)で資産計上科目が変わり,査定後は無形資産となる。そのため,大企業といえども資産管理の観点から特許の資産価値を絶えず評価して取捨選択をしなければならない。メディアの情報では単に特許数と報道される場合が多いが,資産として管理する都合上,出願,審査請求,査定,みなし取り下げ等,各段階をビジネス戦略的に使い分ける。例えば20世紀後半に我国の大手企業は1件の発明に対して5〜10本の出願を行った。このため公開特許情報を見る際に紙を重ね透かしてどこが違うのかを見つけることもしばしばであった。出願1件で発明の適用範囲を複数記述できるにもかかわらずバラバラの出願に分割する理由は,特許出願数が研究開発職の人事査定の重要項目であったことにも起因するがビジネス戦略上の理由もあった。やりすぎて,数社が特許庁から指導を受けたことで収まったが,今度は近隣の国々が同様の手法で出願本数を増やしている。

 実際に特許実務を指導して頂いた方々から,「電気電子関係の各社間特許クロスライセンスは印刷した出願書類の重量差を目の前で計って対価を決めた」と教えられた。つまり,出願費用負担の可能な企業ほど有利になる仕組みが家電半導体で我国が世界を凌駕していた時代の実務であった。現在でもいくつかの分野でこの傾向が残されていると聞いている。時々ニュースネタになるのは大企業がベンチャーに相応の対価を出し渋りしたか,大企業同士で揉めた場合の係争である。

 このような知財業界外の人々が疑問に思うことが知財実務で行われている理由は極めて単純である。特許成立の要件は新規性と進歩性ということに主眼が置かれる。一見,明白に見える要件であるがその解釈と判断はなかなか難しいものがある。形状,つまり見た目で一目瞭然であれば簡単である。有名な例ではテレフォンカードなどのプリペイドカードで,短辺の片方の端を欠き取った形状の特許があった。これは目の不自由な方が機械に挿入する向きを手触りで判断できるようにという発明である。

 しかし,材料組成やプログラムのフロー(コード)は見た目ではわからない。常識的に考えて材料組成で年間1000件もの新規・進歩が生み出されることはありえない。従って,ごく僅かな違いを特許にするために「数値特許」という考え方が使われてきたが,これもすでに限界に来ている。筆者は何度も経験したが,結果として裁判での争いは技術者同士の重箱の隅を突くような論争になった。上級審まで争う場合,結審までに費やした費用と双方の技術部門責任者の精神的負担を考えると全く経済合理性を見いだせない(経営者は号令するだけである)。

 資金の乏しいベンチャー企業にとって知財管理と係争は避けたいことである。いくら係争に勝っても大手企業は流通や宣伝力で圧倒的な力を発揮して,結局有効期限の切れるまで市場化が不可能ということが起こる。また,中韓のように技術者を高給で引き抜いて特許回避製品やコピーを力ずくで市場に投入するという手法がまかり通る。結局,特に材料系のベンチャーの最良の策は,取られてはいけない内容を特許出願,審査請求無し(抵触を避けるために「公開情報」という形にする),肝心な技術の根幹はノウハウとして秘密という策を取ることになる。

 特許制度は発明者の利益を法律で補償するとともに生み出された新技術を利用促進することを建前としている。また,今回のCOVID-19のmRNAワクチンのように社会にとって公益性の高い特許については,相応の対価を発明者に支払うことで特許使用を開放することも行われる。更に発明を悪用する国家や組織が想定される場合は安全保障上の重要発明として情報の非公開とする制度を米国や欧州の国々では制定している。

 メディアや行政の識者会議のいう特許件数の課題は,たしかに科学技術力の一端を示すものであるが,特許実務とその経済合理性を論議することなしに特許件数(ほとんど出願件数の比較なのだが)をあげつらうことは,かえって産業政策をあらぬ方向へ導いてしまう。実際,上述のような特許実務を知らない文科省が特許「出願」を助成金申請時に奨励するあまり,大学の出願内容は先行文献調査も大甘のまま出願を目的にしてしまうことが多い。この場合,研究者の自己主張,ゴミクズのようなものが大半になってしまう。また,みずほ銀行のITシステムトラブルのように,経営や管理部門は係争に対して逃げ腰で弁護士事務所と技術担当「者」に押し付けることも多い。知財を重要と言うならば経営・管理部門責任者も自ら学習・経験を持ち,技術と法律の観点に加えて,経済や商業,あるいは軍事の観点から施策の方向性を決めることが望まれる。

(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article2482.html)

関連記事

鶴岡秀志

最新のコラム