世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
藪蚊も経済記事
(元信州大学先鋭研究所 特任教授)
2024.12.02
蚊による健康被害については,筆者の担当する「世界経済評論」誌コラム「Sci & Eng’s Eyes」の5-6月号で取り上げようと思っていたが,これから冬に向かう時期にも関わらず日経新聞で取り上げられたのでIMPACTで話題にしたい。
日経新聞11月7日(電子版)に「『ヤブ蚊前線』北上中 2050年,デング熱が国民病に? 1億人の未来図」という記事が登場した。経済を主軸とするメディアとしては珍しく,蚊による伝染病の拡大を丁寧に説明する長尺の記事となっている。後段に記すように蚊の媒介する伝染病は地域経済に深刻な影響をもたらすが,我が国では国民の間にその認識はほとんどない。国内ではコガタアカイエカの媒介による日本脳炎が戦前から戦後にかけて流行して脅威となったものの,ワクチンの接種(筆者の記憶では幼稚園入園前に小学校に集められてワクチンを飲まされた)により国内では長年流行が起こっていない。気候変動の影響で熱帯に生息する種類のシマカの媒介によるデング熱の北進に加えて,人流や物流の増加や閉鎖環境の改善,つまりターミナル,地下街,倉庫などの広域空調の拡充によって本来シマ蚊が生息できなかった地域にまで活動が広がりつつある。厄介なのは蚊が飛行機に「搭乗」して長距離移動してしまうことである。飛行機のキャビンは入念に消毒されているが搭乗客の服や荷物に取り憑いた蚊を除去することは行なっていない。このため,真冬の新千歳空港内で蚊が飛んでいても異常ではない。
筆者は20世紀の終わり頃に洗剤雑貨メーカーの中で世界最大の家庭用殺虫剤および忌避剤(虫除け)メーカーとマレーシアの企業で製品開発に携わった。「不快害虫」は役所の表現であるが,ゴキブリ,ダニ,ハエ,蛾,ナメクジ,サソリなど蚊以外の人畜に害を与える昆虫(蠍は昆虫ではないが含まれる)を総称する表現である。中でも蚊は吸血鬼のように直接血液中に病気を伝搬するので最も恐ろしい不快害虫である。デング熱以上に蚊の媒介によるマラリアの伝染により世界中で多くの人が亡くなっている。20世紀末までは蚊の媒介による伝染病は熱帯地域の貧しい国が中心であったため対策が遅れたことや,最も有効な忌避剤主成分の「ディート」が,太平洋戦争中に東南アジアでマラリアなどに悩まされていたことを解決する米軍の「極秘の軍事技術」として開発されたという歴史から,1960年代まで一般に市販されなかった。しかし,デング熱など米国南部で蚊の媒介する伝染病が発生しており,近年,感染地域が北進してきているので日米欧で治療薬やワクチンの開発が徐々に始まっている。
蚊の性質は興味深く科学的に解明されていないことが多い。我が国では蚊に刺される時間帯ということを特に意識しないが,同一種類でも熱帯地域の蚊は律儀で「出勤時間」がかなり厳格に決まっている。東南アジアでは日の出前後と日没前後のそれぞれ数時間が活動時間である。それ以外の時間は植物の葉の裏や家屋の薄暗いところで静かに「待機」している。また蚊は暑さに弱く,むしろ人が快適に感じる環境でもっとも活発になるので日中の暑い時間帯は飛ばない。そのため,今年は異常高温の夏から初秋に蚊に悩まされなかったにもかかわらず秋になって蚊に刺された人が多かったと思う。実際,夏に蚊の対策用品の売れ行きがイマイチだったと聞いている。東南アジアの国々では,小学校から感染病予防のために空き缶や排水溝などに蚊の発生する水溜りを作らないことに加えて,蚊の行動パターン等の「性質」を教えている。逆に蚊そのものを使用して行う殺虫剤や忌避剤開発ではこの性質のために,あれこれ工夫して蚊の活動時間をずらす必要の生じることが悩みの種であった。日中は蚊を入れた虫籠に手を差し入れてもなかなか食いつく(業界用語でタッチダウンといいます)ことがなくて苦労した。
マレーシア在住時に現地の方々と一緒にピクニックをした際,朝9時過ぎから午後4時ぐらいまでの間は樹林地帯をTシャツ短パン姿で出歩いても蚊に刺されることは滅多に起こらなかった。うっかり草むらを派手にかき分けたりすると蚊が飛び立ってくるので草むらを通過する時は静かに進むことが肝要であると現地の人から事前に指導を受けた。また夕方から夜にかけて屋外でパーティや会食をする際にはお酒をよく飲む人の近くにいると刺されないことも知った。酒飲みや多汗の人,特に二日酔いでは蚊に刺されやすいのだが,その人が隣にいるとそちらに蚊が寄っていくので刺されにくくなる。エタノールそのものが原因かその代謝物かは議論がある。
東南アジアでは降雨後に生じる水溜りがあれば72時間程度で卵からボウフラになり成虫として飛び立つ。実際に雨後の水溜りにはウジャウジャと水面が隠れるほどのボウフラが沸いているのでゾッとした。研究室でも蚊の卵は冷蔵庫で保管可能なことに加えてボウフラには餌を与えなくても羽化するので細心の注意が必要な蝿などよりもよっぽど飼育が簡単であった。
熱帯シマカは一人の血を吸って満足するのではなく人畜を「ハシゴ酒」ならぬハシゴ吸血をするので伝染病を蔓延させる。行動範囲は狭くせいぜい半径100メートル程度の地域でごく短時間にハシゴするので狭い地域で爆発的にデング熱やマラリアの感染が起こる。実際にマレーシアやシンガポールでは衛生状態や水の管理が悪いバングラデシュからの出稼ぎ労働者居住地域で急な伝染が発生することが多く,市役所が数日程度の地域封鎖を行いトラックに「煙幕発生器」のような装置で大量の殺虫剤を噴霧して伝染の拡大を防ぐ作業を行っていた。またメディアでその状況を報道して近づかないように喚起していた。我が国や欧米でこのようなことを行ったら人権侵害や健康障害とかで起訴沙汰になるが,東南アジアでは伝染病の拡大は分秒を争う事態なので急いで押さえ込まないと地域経済に大きなダメージを与えることになる。
東南アジアの国々では蚊による伝染病対策が進んでいるが,逆に我が国のように従来危険に晒されていない地域では,一旦,デング熱やマラリアが数十件集中発生した際の措置の準備は十分とはいえない。東京都などは感染症対策の要項を示しているものの具体的対策について住民はほとんど理解していない。以前,代々木公園でデング熱が蚊の媒介で発生した際には,ドラッグストアから忌避剤があっという間になくなるという一種のパニック状態になった。東京都は代々木公園を一時封鎖して殺虫剤噴霧を行っていたので行政の対応は適切であったのだが住民への対策の周知は不十分だったのでパニックになった。今後,例えばタワマンで蚊の媒介する伝染病が発生するとそのタワマンは封鎖,外出も訪問も禁止となり,デリバリーも使えず住民は数日間閉じ込められることになるだろう。なお,シマ蚊類成虫の寿命は1週間程度なので閉じ込めは最長10日程度になる恐れがある。その時,タワマン住民は冷静でいられるだろうか。恐らく騒ぎ立ててTVも人権無視を喚き立てて大騒ぎして放映するに違いない。しかし,タワマンのたった一人がデング熱に罹患して電車に乗ったら東京中にデング熱が広がる可能性を考えなければならない。もし東京駅で数十人のデング熱感染が確認されたら東京駅と有楽町,大手町,神田の各駅一帯を封鎖しなければならないのでJR線と東京メトロは運行停止か東京駅通過になるだろう。マレーシアやシンガポールの場合にはバングラデシュからの出稼ぎ人は特定の地域に住まわされて集団で職場へ移動するので病気の伝搬を抑えやすい。マレーシア人やシンガポール人が特定地域で多数感染した場合もその周辺を隔離して移動を制限することは同じである。
蚊はウイルスと異なり目視可能ではあるが現状では媒介感染対策ワクチンは完成していない。唯一の防御策は忌避剤であるものの,その使い方の教育は心許ない。パニックを避けるためにも東南アジアの知恵を学ぶ時がきている。
最後に忌避剤の使い方を一言。蚊は人体の暗い色や温度の高いところを狙ってタッチダウンしてくる。耳の裏,肘や膝の裏,足首など血管が見えている部分はより丁寧に忌避剤を塗布することをお勧めする。「自然に優しい」天然香料系の忌避剤は残念ながら効果が薄いのでディート製剤をお勧めする。
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