世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.3839
世界経済評論IMPACT No.3839

欧州炭素繊維規制報道に見る日本の制度的視野の欠落:科学的評価と国際信頼をどう築くか

鶴岡秀志

(元信州大学先鋭研究所 特任教授)

2025.05.19

 2024年4月12日付の日本経済新聞記事「車向け炭素繊維にEUが禁止案」は,欧州連合(EU)が安全規制の一環として炭素繊維(CF)を含む高性能素材の一部を規制対象とする可能性があると報じ,日本の素材産業に波紋を広げた。特に自動車や航空機に不可欠な炭素繊維が有害物質とみなされるとの論調は読者に強いインパクトを与えた。5月8日,5月10日にも関連解説記事を掲載した経緯を見ても重要な案件と見ていることは疑いようがない。しかし,本記事の問題はメディア特有のセンセーショナルな見出しにとどまらない。EUの政策文書に対する原典確認の欠如,リスク評価とリスク管理の混同,炭素繊維とナノカーボンの区別の不明確さといった,科学的・制度的な理解の欠如が随所に見られる。結果として,産業界の不安を煽る一方で,国際的な規制潮流や安全性評価の文脈を読者に正しく伝えていない。

EU規制の背景にある科学的評価の蓄積

 EUの規制は突発的に導入されるものではなく,脱炭素やEVオンリーなどドイツの恣意的な要求がしばしば顕在化するものの長年にわたる科学的知見と制度的積み重ねのもとに設計されている。今回のCF規制に関連するナノ材料のリスク管理は2005年以降,欧州では環境・健康・安全(EHS)の三位一体の予防原則から進められており,EUは「NanoSafety Cluster」という研究ネットワーク(筆者も一時期メンバーだった)を通じ,ナノ材料の安全性評価を科学的根拠に基づいて行ってきた。こうした取り組みは,EUの化学物質規制制度「REACH」にも反映され,特定のナノマテリアルについては個別に評価・分類・表示の義務が課されている。2024年9月に発表された「EU Document 32024」はその最新動向の一つであり,規制強化の背景には科学的評価に基づくリスク認知がある。この文書では,限られた形状の多層カーボンナノチューブ(相似的形状であるCFを含む)が持続性・残留性・発がん性の懸念物質として位置づけられている。規制形状の数値範囲はアスベスト健康影響研究で重要視される発がん性を誘引する形状範囲を示した研究成果のStanton-Pott仮説とほぼ一致している。

カーボンナノチューブ(CNT)に対する国際評価の実態

 CNTに関しては日米欧の主要研究機関で同一の基準物質を共有し,幅広く徹底した安全性研究が実施され,一材料の安全性研究としては類を見ない規模で行われた。結果的に安全性評価研究の対象としてMitsui MWNT-7(通称Mitsui-7:三井物産が開発・製造,学術論文でもこの名称を使用)を基準として国際機関による正式な評価基準が提示されている。世界保健機関(WHO)傘下の国際がん研究機関(IARC)は,Mitsui-7を予防的管理が推奨されるレベルのグループ2B(ヒトに対して発がんの可能性がある)に分類した(参考;飲料用アルコールはグループ1=確実にがんになる,に分類される)。また,米国では国立労働安全衛生研究所(NIOSH)が公開報告書「CIB 65」にてCNTのばく露限界値と管理指針を定め,産業衛生の現場での対応を促してきた。日本でも厚生労働省が世界で唯一,Mitsui-7同等品を使用したCNTの長期吸入ばく露による安全性試験を日本バイオアッセイ研究センターに委託し,その結果「顕著な中皮腫・発がん性を認めない」を発表している。これは国際的にも高く評価された研究成果である。

日本の制度的遅れと企業対応の不透明さ

 なぜ日本がこれだけの研究実績を持ちながら国際的な信頼を築けなかったのか。主因は,制度的統合の欠如とリスク評価の実効的運用の遅れにある。多層CNTに形状が似通った直径の細いCFの登場以来,CNTとCFは安全性研究において同一視されるようになった。それにもかかわらずCFの製造を行う大手企業は上述のWHO-IARCやCIB65に記載された「推奨されるミクロ・ナノの繊維状物質の21世紀バージョンの安全性評価基準」に則った評価研究実施に消極的であり,結果的に製品ごとのリスク分類やばく露管理方針に標準的な管理基準の作成が行われていない。REACHのような製品登録制度や,市場に出る前の包括的リスク評価フレームワークも日本には存在しない。また,規制の所管が経済産業省と厚生労働省,環境省に分かれており,縦割りの中で「誰が何の責任を持って評価し,管理するのか」が曖昧である。素材開発の支援を主目的とする経産省は,リスク評価に関しては一貫して後手に回っており,国際交渉の場でも存在感が乏しい。

日経新聞記事の問題:分析なき誤報のリスク

 こうした背景を踏まえると,日経新聞の4月12日記事には複数の問題がある。まず最大の問題は,EUの「禁止案」とされる文書の原文(EU Document 32024)を参照せず,産総研や研究者からのコメントだけで記事を構成している点だ。EU案文を読む限り,同文書は“すべての炭素繊維を規制対象とする”といった主張を含んでおらず,「ナノサイズかつ繊維状で直径と長径が一定範囲」のものに限ってリスク評価およびラベル表示が求められている。それにもかかわらず,記事では「車向け炭素繊維」「自動車産業に打撃」「航空機にも」といった表現で,あたかも実用素材が広範に禁止されるかのような誤解を誘っている。

 次に,記事全体が「日本の素材技術が過剰に警戒されている」という構図に傾きすぎており,国際的な安全性評価や規制整合性を率先して世界市場に提示するアクションの重要性が抜け落ちている。一部研究者の見解のみに依拠した内容であり,国際的な科学に基づく合意や欧州の政策形成プロセスに対する理解を欠いている。これでは国民や産業界に誤った危機感や無用な敵対意識を植え付けることになり,冷静な政策対応の妨げになりかねない。

技術と信頼の未来に向けて

 CFやCNTのような先端素材は将来の脱炭素化社会の基盤技術である。その発展を妨げないためにも,科学的リスク評価と透明性に基づいた社会的信頼の構築が不可欠である。EUの動きは過剰な規制ではなく,科学と制度の整合性を重視する欧州的アプローチであり学ぶべき点が多い。素材技術の国際競争力を真に高めるためには,「作れば売れる」「高性能であれば評価される」という発想から脱却し,安全性・持続可能性・社会受容性を同時に満たす開発と制度設計が必要である。今回の報道が内容の不備を認め,その本質的課題に目を向ける契機となることを期待したい。

(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article3839.html)

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