世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.2304
世界経済評論IMPACT No.2304

πと精密な誤謬の世界から

末永 茂

(エコノミスト  )

2021.10.04

1.論壇の瓦解を回避するために

 このサイトで熊倉正修教授は繰り返し大学教育(注1)(注2)の空洞化について訴えており,大学機能低下に対する切迫感が伝わる。研究者は本来一般教育や職業教育よりも,基礎研究に時間を割かなければならないが,経済学者が実務労働に追い込まれている現状は由々しきことである。企業人の「本音と建前」(ジョブ型採用の推進といいながら,実際はスキルのない人材の大量採用)の発言に惑わされることなく,大学人は毅然と本流を歩むべきである。「お客様は神様である」といったポピュリズムに高等教育が流されれば,我が国はかつての大国オランダやスペインの如く中進国に後退するしかない。受験参考書の傾向と対策・過去問演習中心の講座だらけになったら,「途上国は市場経済化の進展により西欧民主主義国家へ歩み出す」とか,「人道支援やODA外交が国際関係を良好にする」といった簡略な研究結論しか出せなくなるだろう。ビジネス社会はシンプルなルーティーンでなければ仕事を熟せないだろうが,人文社会科学の論理構造はもっと重厚(注3)である。

 かつて社会科学といえばマルキシズムとほぼ同義の扱いを受ける時代があった。戦前から1960年代まではその傾向が強かった。従って,大学の文系学部を卒業すれば,反企業的であり労働組合に積極的に加担するはずだと,経営側が受け止めていた。しかし,労働組合の組織率は1949年の55.8%をピークに,2020年現在は17.1%にまで連続的に低落している。さらにソ連崩壊によるマルキシズムの解体は,ミクロ・マクロ経済学にその席を譲ることになり,人文社会科学そのものがマニュアル化されることになった。結果として,人文社会科学の重層的蓄積そのものを放棄して,大学の根幹をなす分野そのものが解体しつつある。正に「産湯と共に赤子まで」である。こうした誤解を生む背景として,旧マルクス経済学者の責任も大きい。彼らの経済学は資本主義の根本矛盾を指摘し革命的危機を叫ぶのみで,より具体的かつ現実の政策的課題に関する実証的分析は例外的にしか存在してこなかったのである。

2.古くて新しい分析方法の確認のために

 円周率π3.14…は無限に続く数値の連鎖である。コンマ以下の数値が長い程正確を期すことになっているから,コンピュータの性能向上の試験データとして扱われてきた。数学と自然現象の記述にとっては格好の材料である。「ゆとり教育」では円周率を3とし,小数点以下を省いてしまったから数概念のイメージが脆弱になってしまった。現在はその反省から,元に戻したようである。オリパラや世界選手権等のスポーツ競技では,コンマ数桁を巡って競い合っており,また,映像記録を併用して順位を判定するまでになっている。時計の超精密化が競技形態までも変えており,世界記録はリアル参加でなくとも時空を超えて比較可能になった。

 これに対して,社会統計や経済統計の数字はどのように扱われるべきなのだろうか。有効求人倍率や失業率等の数値は通常コンマ2桁か1桁で表示され,それ以下は省略される。これは計算上の無限に続く桁数を表記しても,ほとんど意味をなさないからである。ここに社会科学上の有効数字の扱いや難しさがあり,また醍醐味もある。高橋亀吉(1891−1977年)は戦前・戦後を通じて100冊を越える著書を著した経済評論家であるが,最晩年の『私の実践経済学』(1976年)で経済分析の要諦として,次の2点を指摘している。一つは「実際の経済動向の始動は,その行動の意思決定によってスタートするものである。従って,その意思決定の時点を対象に考えると,経済行動と統計との間には,ゆうに六ヵ月以上の時間差があるのがむしろ普通である」(p.44)。二つ目は「統計数字は,そこに表われた現象はすべて同質であり同じ意味をもっているという暗黙の大前提にたっている」(p.46)としている。つまり,高橋の問題意識は統計と時々刻々動いている経済動向とのタイムラグ,及び経済統計の質と量の関係を如何に判断するかにある。

 パソコンやビッグデータの驚異的発達でタイムラグはかなり短くなったが,それでもこの問題は究極において解消できない。なぜなら,統計数値は過去のデータでしかないからである。過去−現在−未来が同質であるはずもないし,統計認識によって人々の経済社会行動・意識は変化するから,この誤差は工学的にどんなに精密に計測可能になったとしても,逃れようのない現象になる。さらに厄介なのは社会的質と量の相互関係で,人々の価値判断の定量化は永遠に解けない課題でもある。これらの諸問題は既に,19世紀のドイツ統計学派やA.ケトレーの論争で尽きているともいえるが,形を変え連綿と我々は議論している。

 確かに,量の拡大によって忌まわしき過去を消滅・解消することはできる。そのため貨幣的価値は価格という数学的に無限大を想定している。これに対して,生命体である身体は有限である。資本主義経済は全ての価値を貨幣によって交換可能とするシステムであるから,人間の愛も価格で表現することになる。慰謝料とか保険料がこれに該当するが,これで精神的葛藤をも緩和してしまう。多額の金銭によって欲望への麻痺が失意をも解消してしまう。しかも人間の脳みそはコンピュータにはない優れた最大の機能である「忘れる」という能力を有している。正常性バイアスは我々を鬱病からも救済している。量的拡大は経済学的には経済発展ということになるが,モデル化の前提を考察する際,社会哲学や人間への深い配慮と愛がなければ,その有効性は確かなものにはなり得ない。

[注]
  • (1)大学が進学率上昇によって,大衆化やユニバーサル化しても大学と銘打つからには学術研究講座を必修にしない改革は,その存立意義を自ら放棄することになるだろう。大学をランキング化し,下位層の大学は実務大学にし,高位層の大学のみが研究大学にすれば良いという議論もあるが,研究の多様性やすそ野の広がりを考えた場合,あまりに短絡な発想と思える。
  • (2)最近の研究業績評価を巡って数値化が基準になるが,その有力な指標に論文数や引用数が問題になる。そのため,教育学の分野でも多数の研究論文,これまでにない教授方法を発表しなければならない。しかし,人間の教育方法は百年も千年も変わらないものが根幹にある。脳の認識構造理解はいくら進んでも,脳そのものの構造は人間である以上,変わらない。
  • (3)歌手の小椋佳は銀行を退職してから,文学部思想文化学科に学士入学し,「人文学の奥深さに感銘を受けた」旨の発言をしている。サラリーマンの多くが在職中に深い学問と触れる機会が日常化すれば,真に豊かな社会になるのではないか。クセジュ文庫や岩波文庫が広く学問的素養アップに貢献してきたが,今後さらに大学が生涯学習の拠点になればと期待している。
(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article2304.html)

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