世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.2125
世界経済評論IMPACT No.2125

シンガポールの次期首相は白紙に

椎野幸平

(拓殖大学国際学部 准教授)

2021.04.19

 次期首相就任が確実視されていたヘン・スイキャット副首相は首相候補を辞退する方針を表明し,与党・人民行動党内における次期リーダー選びは白紙に戻ることとなった。2022年2月までに退任する方針を表明していたリー・シェンロン首相が,当面,首相を継続することとなる。今後の焦点は,野党の伸張がみられる中,人民行動党の第4世代のリーダーが若年層も含めた国民的な支持を獲得していけるかにある。

ヘン副首相が次期首相候補を辞退

 4月8日,リー・シェンロン首相,ヘン副首相,第4世代の主要閣僚らが記者会見を開き,ヘン副首相が第4世代のリーダーを退き,次期首相候補を辞退すると表明した。ヘン副首相は,2018年に与党・人民行動党の書記長第1補佐(書記長はリー首相)となり,2019年に副首相に抜擢され,次期首相候補として位置付けが明確化され,併せてリー首相が70歳(2022年2月)までに首相職を退く方針を表明していたため,近く首相に就任することが確実視されていた。

 この流れに大きな変化を与えたのがコロナ禍である。ヘン・スイキャット副首相は記者会見で,コロナ禍が喫緊の課題であり,この課題克服のためにリー首相が首相職を継続することが必要であるとし,コロナ禍の危機克服まで,リー首相体制が継続するとした。そのため,ヘン副首相(ヘン副首相は今年60歳)は,コロナ禍の危機を克服する頃には60歳代半ば近くになるとして,その後,政権を継続する時間が少なくなるため,より若い世代から次期リーダーを選任すべきことを理由として挙げた。

 加えて,ヘン副首相は否定するものの,影響を与えたと考えられる要素が2020年7月の総選挙結果である。同選挙では,人民行動党の得票率は61.2%(2015年総選挙では69.9%)と過去最低に近い水準に低下し,野党・労働者党が議席を増加させた。また,ヘン副首相が出馬したEast Coast(グループ選挙区)では,同副首相が梃入れのため選挙区を鞍替えして出馬したことは留意する必要があるものの,人民行動党の得票率は53.4%にとどまり,ヘン副首相の政治的基盤に不安が残る結果となっていた(椎野,2020)。この選挙結果によって,ヘン副首相に対する国民的な支持に懸念が生じたこと,さらにコロナ禍によってリー首相が当面継続する必要性が認識されたことが背景にある可能性はある。但し,この点について,記者会見で同様の質問を受けたヘン副首相は,East Coastでの選挙結果は辞退の理由ではないと否定している。

 ヘン副首相は,ケンブリッジ大学経済学修士,ハーバード大学公共政策学修士を修了し,リー・クアンユー元首相の秘書官,通産省次官,シンガポール通貨庁(中央銀行)長官などを歴任し,2011年の総選挙で政界入り,教育相を務めた後,2015年には財務相に就任していた。ヘン副首相について,記者会見で第4世代の閣僚からは,ヘン副首相のリーダーシップは幅広く意見調整を行う集団的な新しい形であったと指摘されている。リー首相は,次期内閣改造で,ヘン副首相は兼任する財務相は退任するものの,副首相と経済政策調整相に留任することが表明された。

次期首相候補として取り沙汰される4閣僚

 焦点は,次期首相候補の選定である。この点について,リー首相は第4世代から新たなリーダーを選出し,移行の準備が整うまで首相職にとどまることを表明するとともに,次期リーダーの選定は次期総選挙前(シンガポール議会の任期は5年)までに選定する方針を明らかにした(記者との質疑応答では「数カ月以上数年以内に選定,次期総選挙前に明確なアウトカム」と発言)。次期リーダー候補として取り沙汰されているのは,チャン・チュンシン通産相(51歳,人民行動党・書記長第2補佐),ローレンス・ウオン教育相・第二財務相(48歳),オン・イエクン運輸相(51歳),デスモンド・リー国家開発相(44歳)である(The Straits Times, April 9, 2021)。リー首相は,チームのパフォーマンスを最大化できる人材を選ぶと強調した。

 2020年の総選挙で,4閣僚がそれぞれ出馬したグループ選挙区の得票率をみると,チャン・チュンシン通産相は63.1%(Tanjong Pagar),ローレンス・ウオン教育相・第二財務相は63.2%(Marsiling–Yew),オン・イエクン運輸相は67.3%(Sembawang),デスモンド・リー国家開発相は51.7%(West Coast)であった。なお,チャン・チュンシン通産相が出馬したTanjong Pagarは歴史的にリー・クアンユー元首相の選挙区で1991年~2011年までの総選挙では野党が候補者を立てず無投票当選を繰り返してきた選挙区である。また,デスモンド・リー国家開発相が出馬した選挙区は,野党の有力指導者であるタン・チェンボク・シンガポール前進党書記長が出馬した選挙区である。

鍵となる若年層への支持拡大

 今回の方針表明によって,次期首相候補の選定は白紙に戻り,リー首相体制が当面継続することとなる。今後,人民行動党の第4世代が,国民からの強い支持を得られるかが焦点となる。2020年の総選挙後の記者会見で,リー首相は,同党の得票率が伸び悩んだ要因として,コロナ禍の影響とともに,若年層が国会での野党の議席増加を望んだ結果だと指摘しており,次期首相候補が若年層への支持拡大につなげられるかが課題となる。近年,シンガポールでは,政治の世界で多様性を求める声が若い世代を中心に広がるとともに,野党に有意な人材が入党し,野党の人的基盤も広がりをみせている。

 また,シンガポールは近年,低所得者層への再配分政策を強化し,加えてコロナ禍に対する景気対策のため財政支出を拡大しており,歳入拡大のため,物品・サービス税(GST)の7%から9%への引き上げなど国民に負担を求める政策実施も控えている。今後,世界的にも低水準である個人所得税や法人税などでも負担増が求められることとなるかも注目される。人民行動党にとって,次期首相候補のもと,安定的な支持を得られる体制構築につなげられるか,その模索が続くこととなる。

[参考文献]
(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article2125.html)

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