世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.2021
世界経済評論IMPACT No.2021

映像に観る「道徳感情論」:人々の悲しみと喜び

末永 茂

(エコノミスト  )

2021.01.25

映像からの多面的な情報

 ZOOM会議によって学会の月例会等には直接足を運ばなくても参加できるようになり,大変助かっている。また,専門会議とは異なった映像からもいろいろ学ぶことが多い。名作と言われる映画には必ずと言ってよい程,名言が挿入されている。それを見つけ出すのも映画鑑賞の楽しみである。『ショーシャンクの空に』という作品では「不運は常に空中に舞っている。それが誰に舞い降りて来るかは,誰にもわからない。」というセリフがある。この映画は脱獄不能と言われた刑務所からの脱獄記である。しかも冤罪で収監された人間の物語である。

 悲劇的なTVニュースでは池袋で発生した高齢ドライバーの暴走事故がある。公判で加害者は,ブレーキを踏んだが機能せず,自分には落ち度はない旨の主張をしていると報道されている。法廷では「認める・争う・不知」の形式論理を積み上げて論理を構成するため,一般市民からすれば奇異な感覚を伴う場合が少なくない。被害者家族には同情を禁じ得ないが,飲酒運転の罰則強化の時のように,せめて今回の事件が高齢者の自動車運転免許制限に弾みがつけばと願うばかりである。

 元タカラジェンヌで歌唱力が抜群の歌手がいる。だが自身の持ち歌は少なく,街頭で披露する機会が多いようで,雨風から守られたホールで力いっぱい歌って欲しいという気持ちも湧いてくる。また,日比谷の特設会場での映像では,ガラス越しの背後に道路工事をしている現場が映し出されている。世の中には様々な仕事が同時並行して進められ,社会を構成しているが,改めて「労働とは何か?」を考えさせられる情景である。コロナ禍で室内活動が制限されるようになったから,こうした光景が今後増えるのかどうかはわからないが,皮肉な現象である。

価値の相対化と数値化のレトリック

 「全国市町村の住み易さランキング」というのがあるが,上位の市町村住民の肌感覚からは程遠いようである。ある「特定の指標」を簡略に指数化すれば,序列や順位は即座に表現できる。単なる話題提供か,麻雀を楽しむ程度のものかと理解すればそれでもいいが,企業評価や大学ランキングなるものもその類のものだろう,という位のものである。だが,これが実効性のあるものに転嫁した場合は,そうも言っていられなくなる。

 数量・数値化は魅力的な手法であり説得的である。自然科学では個々の観察現象を類型化し,それを数学的に置き換えることによって普遍性を獲得する。これを援用して,人間の一生という短い時間軸の出来事や偶然性の塊のような一回限りの現象を,繰り返しの法則によって説明する。そして,真理を発見したような錯覚に陥る。経営分析に利用される「自己資本比率」「生産性」「損益分岐点」「売上高営業利益率」等々といった計算手法は帳簿に基づいて詳細に行われるが,最終的な経営判断は経営者の経験的な判断(経営者集団の合議)に依存する。

 経済分析も一企業のように単構造であれば問題は少ないのだが,国家レベルになると格段に位相が異なる。もしかして企業経営と国家運営を,はき違えている人がいるのではないかとさえ懸念される。経営団体幹部や選挙を潜り抜けてきた政治家が必ずしも経済政策立案に適さない場合もありうるが,我が国の運命を左右する専門家による政策集団を如何にして選任すべきなのだろうか。

多元連立化による高次元化か

 フーリエ変換によって非周期的な現象もかなりの程度解明できる。経済現象を多元連立化によってその近似的模擬的図式化も可能である。だが,現実社会は多数派工作や空間的文化的合意を伴っており,合理主義一本では分析出来ない。繰り返される現象は時間的歴史的合意過程で変質していく。公理—定義—定理,予想という数理哲学の諸概念は,厳密に概念化されているというが,この方法を社会科学や経済学に応用した場合,事態は危うさを伴う。経済学の諸概念としての「定理」や「原則」,「理論」といった概念や表現は,大抵は提起した経済学者の名前を冠して認定されるが,仮説的な意味合いに近似しているのが殆どである。あるいは法則というよりも「法則性」といった幅のある概念である。そしてこれが制度化し強引に政策決定がなされ社会全体にそれが施行された際,しわ寄せを食らう一群の人々を生み出す。この論理は既にハイエクの自由主義論で指摘されている。

 非可逆的歴史過程を限定的な方程式で解けるのか,という根本問題と共に方程式が複雑多層化すればそのこと自身の意義も喪失してしまう。計算値は弾き出されるが,解は遠ざかり,秀才たちのジレンマもそこにある。何時になったら理論経済学者たちはアートにしかならない数理化の矛盾や,社会的乖離を受容するのか。社会主義の実験ではそれが不可能であると歴史的に断罪されている。何れの学理学説にも先に紹介したような,悲劇的な人間の存在に目を向ける深い理解がなければならない。

 今,パンデミックで社会の在り方が問われているが,拙速な経済政策や無理やりモデルに押し込める議論ではなく,我々はどこに向かって歩んでいるのか,という構造的分析と丹念な実証分析を求めたい。さらに,敵対が想定される地域や国家の政治的野心を誘発させないためには,軍事・非軍事のトータルな議論を常に喚起しておかなければならないだろう。知識人が単なるコンピュータ・ゲームに専念するために暇乞いをしているようでは,時期が来れば一気に軍事戦略の議論にジャンプせざるを得なくなる。しかしながら,経済学は文学部倫理学科に由来し,数学は文学部論理学科にその源流がある。やはりどの分野に進むにしてもスタートは文学部にあり,終着駅も文学部辺りが適当ではないか。これを忘れてはならないように思える。それ故,ナッシュ理論は映画『ビューティフル・マインド』によって,均衡を図らなければならなかったのである。

(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article2021.html)

関連記事

末永 茂

最新のコラム