世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.1791
世界経済評論IMPACT No.1791

EU意思決定の遅延:欧州連合の舞台裏

瀬藤澄彦

(帝京大学 元教授)

2020.06.29

 実はコミュニケーションの難しさはEU委員会固有の統治や組織編成の仕方などだけに基づくものではない。EU連合の外延的拡大にともなって23もの違った言語を話す27カ国の国籍のEU官僚ユーロクラットたちをどのように上手に共存させていくのかがカギを握っている。これはEU拡大の最初の時期から難しい課題として認識されていた。この問題は欧州連合がこの言語上の障害によって知的な水準を保てなくなりついにはそれが低下することが心配さることにつながる極めて由々しい問題であると言うひとも多い。フランスの言語学者フェルディナンド・ディ・ソシュールが喝破したように言語は単なる伝達手段でないのだ。それは話し手のアイデンティティにかかわる。1996年より欧州連合ではコミュニケーションをよくするために英語をただひとつの共通言語としたのである。1995年まではフランス語が第1の言語であったが,英語とほぼ対等に共存していた。ここまでが英仏2言語時代で第3の公式使用言語はドイツ語であったが,ほとんど実際には使われていなかった。1995年,小国ではあったがスウェーデンとフィンランドのEU加入を契機として英語派が過半数を占めるようになった。この2カ国ではすでに英語が職業上の準公式的な言語になっており,両国では仏独語ともよく話されている言語であったために英語が採択されたのである。2004年は10カ国の加入によってこの傾向に拍車がかかった。今日では肝心の英国がEUを離脱してしまったというのにEU連合の文書の95%は英語で議論されて起案され,「公式」文書になるようになってしまった。英語がEUの支配的第1言語となってしまった現在,英語のできる人材がますます徴用されるようになった。委員会ではEU規定に抵触することは分かっていても期限付きの英語のネイティブ・スピーカーを採用するようになった。そしてその公募に対する返答も英語で作成しなければならばくなった。この結果,加盟国の企業,R&D研究開発部門,大学では膨大な翻訳経費や文書意思決定の遅延を招いていると言われている。

 EU委員会のすべてのコミッショナー委員,すなわち省庁で言えば大臣,その官房室長全員が集まるのは定例の毎週,月曜日の午後であり,そこでほとんど議事次第に沿ってすべての重要事項が決定されていく。従ってこの大臣官房室長会議で意見の合意がない場合のみ,大臣閣僚会議に相当する加盟28カ国の全コミッショナー委員の集るEU閣僚会議が毎週水曜日の午後に開かれ,それに決定が持ち越されることになる。しかしここでも問題はこれだけに限らない。あのプロディ委員長の時代からそれまでの集団的合議制,すなわち構成メンバー全員の議論を踏まえて民主主義的な多数決によって意思決定していくというシステムは遠い過去の思い出になってしまったという(ヴァッサール氏)。EU委員長が事実上の意思決定を独断でするようになり,コミッショナー委員の間で議論をすることは本当にまれになってしまったと言われている。あまつさえ,いっぺんに加盟国が急増して28人ものコミッショナー委員全員がコンセンサスを形成することは容易なことではなくなった。結局,それぞれの総局内部の所掌事項の仕事の殻に閉じこもってしまい,部内の序列についての配慮が優先して横断的なビジョンが欠落してしまったとジャーナリストのカトルメール氏は指摘する。そう言えば私のフランス経済省対外経済関係局(DREE)出向時にラビエ局長がことあるごとに部局間の壁を取り払い,全体のトランスバーサル(transversal)な透明な横割り関係が大事であるとことあるごとに口を酸っぱくしていたのを想い出されてくる。さらに日本の組織の大部屋方式が羨ましいとまで言っていたことをよく覚えている。

 もし委員長が横断的なヨコのつながりを意識しない場合にはもはやだれもこのような集団意識はないということになってしまう。このような一種の無責任な体制のなかでは重大な欧州連合としての政策的誤謬が発生する。例えば欧州連合には世界レベルの欧州チャンピオン企業を企業合併などで育成して作ろうという議論がある。しかし市場競争問題担当コミッショナーは欧州市場での競争制限になる独占状態を作り出さないことばかり気にしていつまでたっても世界の企業ランキングでは米国,中国,日本の企業の後塵を拝するリージョナルな企業に甘んじる結果になっている。世界40大企業のうち欧州は5社のみである。アップルやアマゾン,あるいはマイクロソフトのようなグローバルな世界規模の企業は欧州連合では絶対に生まれてこないであろうと専門家は指摘する。ごく最近でも2019年2月にドイツのシーメンスとフランスのアルストムの鉄道事業の統合計画が,また4月にはドイツ銀行とコメルツ銀行の合併による「強いドイツの銀行」がドイツ経済に必須との認識にもかかわらず経営統合の協議が打ち切りになってしまった。また昨年12月に合意が成立したPSA(プジョー・シトロエン)とFCA(フィアット・クライスラー)合併の帰趨は1年以上の時間が「多くのEU内の関係当局の事前承認が必要」であるので,フランスのルメール財政経済相は予断を全く許さないという。勿論,コミッショナー全員がEU連合の時代遅れの考えにあると言う訳ではない。それが証拠に対外通商担当コミッショナーはEU域外の多くの国・地域と自由貿易協定を締結している。日本,カナダ,南米共同市場(メルコスール)との協定が次々と結ばれている。

 こういう訳で大臣官房室長はこの委員長やコミッショナーの意思決定のやり方をまねるようになった。これらの各室長も一介の公務員である。定年までに昇進をして総局長という高いポストに就けると見通されるので,今の段階で無理をして総局長の決定や意図について異議を唱えたりすることは控えるようになる。ジャン・クロード・ジャンカー委員長の官房室長は欧州連合内で最も影響力のある事務総長に就任したマーチン・セルマイヤー(Martin Selmayr)は,「世界で最も強力な官僚」と評され,その「高圧的で強権的な」態度で職員を恐れさせると同時に覚えのいい局長には世話づきであったとされている。ここでは強力な事務総長を中心にすべてが運び異議を挟む余地のないシステムが確立していたのである。かつてはドロール委員長時代にはパスカル・ラミーや,ピーエル・ジュイエ(Jean Pierre jouyet)など本国フランスからの大物官僚が委員会内での人事や昇進など気にせずに仕事が緊張せずに進行した。現在の委員会では責任あるポストに個性のある人物は敬遠されるばかりに成り下がってしまったと言われる。今回のコロナ危機にその真価が問われる。

(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article1791.html)

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