世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.1505
世界経済評論IMPACT No.1505

メルケル政権の焦燥とドイツ政治の新次元

田中素香

(東北大学 名誉教授)

2019.10.07

 「ドイツの独り勝ち」といわれたのは,ユーロ危機のさなかだった。新興諸国,とりわけ中国への輸出急増が経済を引き上げ,南欧諸国などが大量失業に直面する中で,完全雇用を実現した。ユーロ危機の中で財政支援と引き換えに財政緊縮を強要されたギリシャとスペインの失業率は25%超にはね上がり,若者の失業率はその2倍。悲惨な経済状況に陥った。ドイツでは若者の失業率も低く,一人涼しい顔だったのである。

 今年ドイツの失業率は3.5%だが,ギリシャは18%台,スペインは13%台である。とはいえ,ユーロ圏経済は4年間ほぼ2%で成長し,もはや「独り勝ち」とはいえない。それどころか,メルケル長期政権には焦燥がつのっている。米中戦争の余波を受け,中国事業を先頭に経済が落ち込んだせいばかりではない。あの「独り勝ち」の影響もありそうだ。

 ギリシャ人はユーロ危機の最中にメルケル首相にヒットラーのひげをつけ,ナチスの軍隊帽子をかぶせて腹いせしたが,世論調査で見ると,今日もギリシャ人のEU嫌いはダントツである。ドイツの支配するEUなど支持しておれるか,という心情であろう。反ドイツの心情はEUの少なからぬ諸国にもあるのではないか。

 古い話で恐縮だが,20世紀のEU統合のセールスポイントの一つは,「統合利益の均等配分」だった。経済統合は経済効率を高め,経済的利益をもたらすが,その利益は統合参加国が均等に獲得すべきで,一部の国が独占するのは許されない,というのである。

 リーマン危機後のEUを見ると,南欧諸国はことごとく金融危機ショックと大量失業をよぎなくされたのに,ドイツだけが通貨統合の利益をわがものにして完全雇用,という批判が南欧諸国を中心で出てきても人情というものであろう。ドイツ人にしてみれば,ポルトガルから東欧諸国までサプライチェーンの網の目を張り巡らし,その利益はEU各国が受けているはずだ。中国にも早くから着目して5000社を超えるドイツ企業を立地させたわけで,ドイツの利益はドイツ人の勤勉さから来ているのだ,それにくらべてあなたたちの国は……,と説教をするかもしれないが,南欧諸国にもいいたいことは山ほどある。

 ドイツ連邦銀行が設計を引き受けたユーロ圏の中央銀行システムの危機対応能力はお粗末で,危機国を財政支援してはいけないことになっていた。危機国の国債をECBが無制限に購入することができていれば,投機筋は攻撃を止めたかもしれないのに,国債購入はまかりならぬという規則になっていた。ユーロ危機をあれだけ激しく,厳しくしたのはドイツではないか。おまけに財政緊縮を強制した。ドイツ人には同情という人間が持つべき感情が欠けているのではないか,等々。

 本年5月の欧州議会選挙の後,EUの向こう5年を担う新体制の人事が次々に決まった。ドイツはドイツ連邦銀行総裁のヴァイトマン総裁をECB新総裁に期待していた。ヴァイトマン総裁はECBの「タカ派」の総帥であった。ドラギ総裁が打ち出した非伝統的金融政策,つまりマイナス金利政策とQE(量的緩和策)の導入に反対した。導入は延期されたが,ユーロ圏経済はさらに悪化し,低インフレ(時々デフレ)は継続する。結局マイナス金利政策もQEも導入されて効果を上げたのだが,導入時期は遅れてしまった。そういう人をECB新総裁にするなど,南欧諸国が了承するはずはない。フランスのラガルドIMF前専務理事がECB新総裁に決まった。

 EU大統領(EU首脳会議常任議長)にはベルギー首相のシャルル・ミシェルが,評価の高かったトウスク氏(ポーランド,中道右派)の後を継ぐ。ベルギーのフランス語圏に所属し,マクロン大統領と同じリベラル派である。EU外務大臣にあたるEU外務・安全保障政策上級代表はジョッセプ・ボレル氏,スペイン外相,中道左派で元欧州議会議長,外交のベテランである。そして,欧州議会議長はダビッド・サッソリ氏,イタリア人の欧州議会議員(中道左派)である。

 もっとも重要な欧州委員会委員長はドイツのウルズラ・フォンデアライエン国防相なので,ドイツが最重要のポストを得たことにはなるのだが,フォンデアライエン氏は父親がECSC(欧州石炭鉄鋼共同体,1950年代のEU前身組織)の高級官僚でベルギー生まれ,イギリスの大学に留学しており,ドイツ人には違いないが,ヨーロッパ人的な要素を併せ持つ。マクロン大統領が推薦したと言われるが,ドイツ・イデオロギーで固まった頑固なドイツ人のイメージからはかなり遠い。

 欧州委員会委員長以外の4人はすべてラテン系である。ここにも,ドイツの「独り勝ち」への反発が見えるように思うのだが,筆者の思い違いだろうか。

 メルケル首相はユーロ危機の最中には「事実上のEUの大統領」といわれ,祭り上げられていた。それは,ドイツが財政支援の最大の出資国で,危機国への財政支援金を出さないと支援が決まらなかったからである。メルケル首相は危機に先手を打つとか,タイムリーに危機に対処するというのではなく,ぎりぎりまで支援を引き延ばし,国際金融危機が手に負えなくなる直前になってようやく支援にゴーサインを出した。ドイツ国民が財政支援に反対なので,反対できなくなるほどに危機が激化するのを待ったのであるが,もっと早く対応していれば,危機国があそこまで追い込まれることはなかったはずであった。

 2017年4月マクロン大統領が就任し,議会でも六月マクロン派の共和国前進が圧勝した。EU統合への方針のはっきりしないオランド大統領に代わってマクロン大統領になったことで,メルケル首相とのMM路線がEU統合を進めると筆者は期待した。だが,メルケル首相はマクロン大統領にリップサービスしただけでなんら統合前進へ踏み込むことはなかった。メルケル首相はドイツにとっては安心できる首相で,それゆえ2005年から今日までの長期政権を率いたのであるが,コール首相のように,ドイツ世論に対抗しても通貨統合をなしとげるというような,ヨーロッパ人の要素をもたなかった。まさにドイツ人のリベラル派。メルケル首相の中道右派政権にはヨーロッパを統治する智恵と度量が欠けていた。西ドイツ時代には謙虚でよきヨーロッパ人のリーダーを輩出したが,ドイツ統一後はそうした美風は影を潜め,元のドイツ人に戻った感じを受ける。その時代を代表する政治家がメルケル首相だったのではないかという印象に行き着いてしまう。

 メルケル首相は17年9月の総選挙のあと,連立政権樹立に苦労した。翌18年3月に社会民主党との大連立政権がスタートしたが,しっくりいかず,本年5月の欧州議会選挙がさらに大きな打撃を与えた。メルケル首相の中道右派,それに大連立政権を組む中道左派の社会民主党の議席がかなり大きく下がった。欧州議会では直接選挙が実施された1979年以来中道右派のEPP(欧州人民党)と社会民主党系のS&Dの2会派で常に議席の過半数を獲得してきた。今回初めて過半数を割り込んだ。躍進した会派は,中道リベラルと環境保護派(緑の党)であった。そしてこの結果が,上述したEU5役のうち4人までがラテン系という新布陣を可能にしたのであった。

 欧州中央銀行では多数決制であり,ドイツの主張はなかなか多数を得られない。当初ドイツが反対しても,結局はドラギ総裁の政策が採択されている。EUの法令採択についても,英国が離脱すると,ドイツにとって類似の大問題が生じる。

 EUの法令・政策は二重多数決制により採択される。加盟国数の55%以上(英国が離脱して27カ国になれば,15カ国以上),かつ法令・政策に賛成の国の合計人口65%以上である。英国はドイツと同じように,統合反対・自国ファースト路線で来たのだが,その英国が離脱すると,人口65%をドイツ派諸国で確保するのが難しくなるからである。

 だが,すでに紙数を超えてしまっている。続きは次回に廻したい。筆者はここに記したことなどを含めて,国際貿易投資研究所のITI調査研究シリーズNo.91「2019年欧州議会選挙をどう見るか-EU新体制人事を含めて-」に,かなり詳細な説明を行った。ご参考頂ければ幸いである。

(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article1505.html)

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