世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.1267

急がれるWTO改革と外国語習得の効用

安部憲明

(外務省経済局政策課 企画官)

2019.02.04

 「Le temp passe vite(ル・トン・パス・ヴィット)」——時が経つのははやい。10年前に買ったフランス語教科書の最初に登場する例文だ。文法的には,主語+述語の第1文型でイロハのイ。にもかかわらず,この例文を何度も復唱しているのは,以下の理由による。

 パリに本部を構える経済協力開発機構(OECD)の公用語は,英語と仏語だ。備え付けのイヤホンからは,ほぼすべての会議で,英仏の同時通訳が流れる。何日間にもわたる会議が終わった後の通訳ブースをのぞけば,ベテラン通訳の疲労困憊の顔,顔,顔。訛りの激しい長広舌や専門用語での丁々発止の議論を訳すのだから,重労働だろう。もっとも,英語と仏語が同等に話されているわけではなく,フロアの発言の8割は英語である。仏訳にかけるコストいかばかりかと思うが,そこは,お膝元の強み。言語文化大国フランスの外交力や,プライドと矜持に払われる「必要経費」と納得するよりほかない。

 われわれにとっては,英語が話せればそれで済む,との割り切りも重要だ。仕事はすべて英語で片付くのだから。しかし,仏語を解し話せることが追加的な武器になることも真理である。言語が意思疎通の伝達媒体だから,というばかりではない。交渉は,まさに「数こそ力」だからだ。

 そこには,事前の根回しや多数派工作を行うために,大小さまざまな非公式の利益集団が自然発生することとなる。OECDの内にも,いくつかのグループがある。例えば,先進7か国(G7),アジア太平洋地域の加盟国からなるグループ(最大勢力たるEU加盟国への対抗軸の意味合いもある),東南アジア・フレンズ(「世界の成長センター」ながら,OECDに1か国も加盟していないASEANとの協力強化を重視する)などである。ユニークなところでは,雪が降るスカンジナビア諸国にカナダや日本が加わる「スノー・グループ」(スキー産業や暖房の熱効率について話すわけではなく,共通の「得意分野」であるイノベーションや地球環境,公共ガバナンスなどのテーマ関する質の高い国際基準作りを,OECDで先導することも多い),女性大使の集い(ジェンダー平等は大きなテーマ)もある。これらは恒常的に活動しているが,アドホックなグループもある。年に1度の閣僚理事会の前や隔年の予算編成の時期には,舞台裏で,ときどきの争点毎に利害を同じくする国が離合集散する。うっかり秘密結社の存在が漏れ,切り崩し工作の憂き目に遭うこともあるから,細心の注意が必要である。

 こうした「寄り合い」の常連になり,人脈を巡らし,事情通になることは,多国間交渉を自国に有利な条件で進める上で極めて重要な才覚にほかならない。言葉が苦手な向きには,多彩な趣味や特技もそのための道具である。もしも,「身を助く」ほどの芸がなければ,ふだんから「アイツは面白いことを言う」,逆に「コイツを入れておかないと,あとで面倒だ」と思わせておくことが,声が掛かるための秘訣だ。そして,今になって古びた仏語教科書を開いたのは,ほかでもない。OECDの中で隠然と交渉の磁場を形成するフランコフォン(francophone:仏語を話す)グループに首を突っ込むためである。

 ところ変わって,世界貿易機関(WTO)の改革は,現在,危機にある国際協調全体の消長を決しかねない「待ったなし」の課題である。

 もっとも,WTOの危機は,何も今に始まったことではない。ドーハ交渉ラウンドの停滞は,グローバル化やデジタル化という国際経済を取り巻く急速な趨勢的変化に対応するための国際ルールが存在しない状態を生んできた。長らく,産業補助金や国有企業などの不公正な貿易慣行を規律する新たなルールに合意できていない。トランプ政権の一方的措置の背景には,全会一致原則ゆえに物事を「決められない」国際協調そのものへの不満がある。また,不満の発露としての米国の一方的措置と中国をはじめとする各国の対抗措置の応酬に,WTO協定の統制が十分に及んでいない。さらに,米国の不信感は,WTO紛争解決手続にも向かう。WTOの判定は時間がかかる上に,判定結果が米国の反ダンピング防止税等の貿易救済措置の実効性を弱めてきた,と感じているためだ。これへの米の回答は,WTO上級委員会委員の任命拒否。2019年末までこれが続けば,上級委員会に欠員が生じ,世界貿易のルールの番人はいよいよ機能停止に追い込まれる。トランプ政権のこうした対応は,ただでさえ長年続いてきたWTOの機能不全にとどめを刺すかのようだ。しかし,楽観的に見れば,このショック療法が,皮肉にも改革を急かせているとも言える。

 WTO本部でも,OECDと同様,幾多の公式・非公式の交渉グループが活動している。例えば,農業は,各国の利害関係が複雑に交錯し,激しく先鋭化する分野だろう。各種グループをベン図で書き込めば,いくつもの丸や楕円や四角形が重なり合う1枚の紙は,あたかも天体儀のように見える。有名なのは,ケアンズ・グループ(Cairns Group)。カナダ・オーストラリアなど農産物輸出国19か国から構成され,農産物貿易の補助金撤廃・自由化を主張する。米国は,「G1」という孤高の存在で表されるが,改革に米国を関与させていくことが不可欠だ。EUは,「G28」の一枚岩で交渉に臨む。中国とインドは,少なくとも途上国の特別扱い(S&D)に関心の高い「G33」と,ブラジル,メキシコ,アルゼンチン及び南アフリカなど他の有力途上国も属する「G20」という2つのグループに属する。ほかにも,最貧途上国(LDCs)やアフリカは圧倒的な数で大勢力を形成するほか,小規模ながら声は大きく,中南米の輸出国が熱帯産品(Tropical Products)に特化して組むグループもある。英仏スペイン語の3つを公用語とするWTOに,「仏語グループ」が存在するかは寡聞にして知らないが,国際協調主義の旗振り役を伝統的に自認するフランスやアフリカ諸国と日頃から気脈を通じておくことは,日本が改革の進展に積極的に貢献していく上で有益であるはずだ。ちなみに,本部所在地のジュネーブは,スイスの中でも仏語圏に位置する。

 少年老い易く学成り難し——。ボロボロになった頁を開くたびに痛感する。それでも,個人の学習進度は,まだよい。焦眉の急は,危殆に瀕し,やり直す暇などないWTO改革,そして多国間主義の強化だ。1月下旬のダボス会議の際にも,加盟国の非公式閣僚会合などいくつかの会議が開かれた。スイス製時計の針がカチッ,カチッと刻む音を意識するかのように,WTO改革を急ぐ動きは活発だ。今年も,あっという間に2月に入った。残された時間は多くない。

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