世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
リンカーンの亡霊:連邦国家の天目山,アンティータムの戦い
(外務省経済局 国際貿易課長)
2021.07.05
去る4月28日,米大統領報道官の定例記者会見で幽霊騒動があった。といっても,リンカーンの亡霊はどうやらホワイトハウスの常連らしく,レーガンやルーズベルトなど古い住人の家族や職員の目撃談には事欠かない。実際,サキ報道官は背後で鳴ったギギーという音に,リンカーンの幽霊がまたお出ましのようですね,とほほ笑んで応じていた。
リンカーンは連邦維持と国民融和を至上命題に,共和党内の政治的ライバルや民主党の人材を募る「挙国一致内閣」で国難に当たった。『Team of Rivals』(ドリス・カーンズ・グッドウィン著)は,第16代大統領が,異なる地域や利益を代弁する閣僚らの危ういバランスと求心力の維持に腐心し,憲法上の連邦政府と大統領の権限拡充に専心した様子を活写する好著である。このコラムは,この評伝を題材に,バイデン政権への今日的な示唆を読み解こうとしてきた。
幸いバイデン政権に,今のところ分断や瓦解の差し迫った兆候は見られない。辞任や更迭もいまのところゼロだ。これには,新型コロナ禍との戦いが国家緊急事態だから,「ポスト・トランプ」共和党の反撃態勢が整っていないから,「第三次オバマ政権」と称されるバイデン政権の高官の多くは既に証明済の人物たちであり,各自持ち場で粛々と実務を遂行しているから―など説得的な根拠がある。しかし,のど元過ぎて順調に見えるようでも,全州地図が赤青に分断されて船出したという事実を忘れるべきではない。政権に修羅場は早晩やってくる。
リンカーン政権の,ひいては連邦国家の興廃此ノ一戦ニ在リ,という天目山がどこだったかと振り返る時,1862年9月のアンティータム(Antietam)の戦いはその一つである。シェナンドア山脈の斜面から南東方向に首都ワシントンを睥睨する要害の地での大激戦は,両軍合わせて最大の2万5千名の犠牲を強いた。この戦いに勝利したリンカーン大統領は,軍事において劣勢を挽回し,人事において優秀な軍人を抜擢し,政治において奴隷解放予備宣言の青信号を灯し,外交において英仏が南部諸州を承認する芽を摘んだ。だからこの戦いこそが天目山であった。
アンティータムの勝ち戦は,第一に,北部がそれ以降軍事的優勢を保ったまま勝利に至る転機となった。それまでは,野戦の知将に恵まれた南軍がポトマック流域に進撃ししばしば首都を脅かしていた。
第二に,この勝利は将校の適材適所を促した。南軍の英雄ロバート・リー将軍を撃破したのが,ジョージ・マクレラン少将。34歳の若さで北軍最高司令官に登用された野戦の天才は前線での人気が高く「リトル・ナポレオン」の異名をとった。反面,大統領の意向に従わず,南部の首都リッチモンドに迂回して兵を進める(「半島作戦」)など果敢さを欠いた。「素人は現場が分かっちゃいない」とばかりに大統領への不満を公言していたマクレランに,閣内では更迭論が高まったが,リンカーンはこれを理性で退け,驕慢な将軍を配置転換するにとどめていた。大統領にとっては,グラントやシャーマンといった歴史に名を遺す名将が頭角を現すまで「ハサミは使いよう」との措置だったと思われるが,アンティータムの戦場から敗走するリー将軍を討ち損じた失態を最後に,ついにマクレランを罷免した。ちなみに,リンカーンは,のちに「のろまなジョージ」とも揶揄される若き指揮官を前線に見舞い,たびたび積極策を督励している。そのマクレランは自らの人気を恃んで民主党から出馬し,再選を目指すリンカーンに弓を引くことになるが,結果惨敗に終わる。
アンティータムの第三の意義は,軍事の政事への波及効果である。リンカーンは,共和党の党是における連邦維持と奴隷制拡大阻止の関係について,1862年8月に新聞紙上で「この戦争における私の至上目的は連邦を救うことにあり,奴隷制度を救うことでも滅ぼすことでもない」と述べた。奴隷制度に関しリンカーンは,所有者への補償と解放奴隷の海外移住という漸進的解決を唱えていたのだ。しかし,北部で即時解放論が燎原の火のごとく広がると,ついにそれを戦時公約とする決意を固めたのである。閣内では,スタントン戦争長官やベイツ司法長官は賛成。ウェルズ海軍長官及びチェイス財務長官らが,南部に甚大な混乱や反発を惹起するとして反対。スワード国務長官は,北部がやけっぱちの賭けに出たと誤解されぬよう,戦局好転のタイミングを待つよう自重を促した。大統領は盟友スワードの意見を用い,アンティータムで勝った5日後に奴隷解放予備宣言を宣布した。その後,1863年1月の本宣言を経て,19万人の黒人が北軍に馳せ参じることにもつながった。外交面では,旧大陸の人道的な宣言を英仏の世論が好感し,両国政府の南部承認の道は事実上閉ざされた。
古今東西どの政権にも,アンティータムはある。バイデン政権がいつ,どのような形でこうした天目山を迎えるのか,あるいは既にその中にあるのかは分からない。
リンカーンの亡霊は,今後もバイデン政権が背負う国民の融和と結束という歴史的な任務の遂行情況が気になり,草葉の陰からたびたび姿をのぞかせるかもしれない。
[参考文献など]
- 『Team of Rivals: Political Genius of Abraham Lincoln』Doris Kearns Goodwin著(Simon & Schuster社)2005年10月
- 本コラムの第1回(1月11日)『分断から統合へ:米歴史家の眼』
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