世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
融和と結束の淵源:国民の祈りとリンカーンの言葉
(外務省経済局 国際貿易課長)
2021.07.26
このコラムでは,バイデン政権の発足を念頭に置きながら,国民・国家の分断から結束に転じたリンカーン大統領の政治評伝『Team of Rivals』で描かれた人間模様,指導理念や政治的技法の今日的な意義を読み解こうとしてきた。今回が最期となる。
リンカーンは,イリノイの州都スプリングフィールドで弁護士業を営み,政治家を志しながらも,合衆国の歴史的な栄光は,既に建国の父祖たちにすべて刈り取られ,控えめな野心しか残されていない,と落胆していたという。ところが,19世紀半ばに「突如として,歴史の歯車が回り始めた」。メキシコからの領土割譲(1848年)を通じたアメリカ合衆国の西方拡大と新州加入が,奴隷制拡大の是非を巡る憲法及び連邦制上の難問を提起したためだ。リンカーンが「自由の再誕(new birth of freedom)」と呼んだこの時代こそが,それまでに下院を1期のみ務め,上院選挙に2度も落選した51歳の凡庸な法曹政治家を偉大な指導者に変えた。
そして,4年もの長期にわたった南北戦争も終結目前-。1864年11月の大統領再選前には,北軍はアトランタを占領し,サヴァナからチャールストンと破竹の勢いで南部を制圧していった(ちなみに,筆者は米デューク大学に留学中,南部諸州の街の広場に銅像として立つ「強者どもが夢の跡」の古戦場を友人らと数多く訪れた)。この頃,リンカーンは一刻も早い終戦を望みながらも原理原則を曲げず,ジェファソン・デービス南部大統領の「対等な二国家間」での和平交渉の打診を断固拒否した。また,メキシコに介入したフランス軍を放逐する大義のためにひとまず休戦し,南北連合軍を編成してはどうかとの提案も邪道だと退けた。
リンカーンの最大の関心は,大統領選と内戦の双方の勝利をほぼ手中にした今,国民融和と連邦統合を確実にし,成功した後に往々にして起こる反動の芽を摘むことにあった。『風と共に去りぬ』の場面にもある無慈悲な焦土作戦で南部を阿鼻叫喚の坩堝に落とし入れた猛将シャーマンから,戦後処理について問われた際,大統領は,南軍の指導者や兵士は地元に戻って畑を耕してくれれば結構だ,南部の人間が手にする銃はカラスを撃つためにだけにある,デービス氏はどうか「阿吽の呼吸」で国外逃亡して欲しい,と答えた。リンカーンは,このように敵を懲罰し制裁する気がないどころか,1865年2月の特別閣議では,降伏後の奴隷解放の補償として4億ドル(ちなみに,5年間の戦費は30億ドル)を南部に渡す私案まで提示したほどだったとされる。この案は閣議でさすがに「敗者に甘過ぎる」と瞬殺されたが,閣僚たちはリンカーンの言動に既視(デジャヴ)感を覚えたはずだ。この人物にとって,自分に敗れた相手はもはや敵ではなく,味方であり自らの体の一部なのだ,と(「昨日の敵は今日の友」)。
1865年3月4日の2期目の大統領就任式は,このコラムで「首周りのアルバトロス」に譬え,財務長官辞任後に最高裁判事に任命されたチェイスが宣誓を司った(「4通目の辞表」)。この光景も,恩讐を超えた融和と結束,大統領の包容力を象徴しただろう。短い就任演説でリンカーンは「南北双方とも同じ聖書を読み同じ神に祈り,それぞれ敵に勝つために神のご加護を求めている」と厳かに述べ,続けて「奴隷制度は神の摂理により当然生じた蹉跌の一つであり,神が定める間は続いてきたが,今,神はこれを廃止することを望んでいる。神は蹉跌を生んだ者が受けるべき報いとして,北部と南部双方にこの恐ろしい戦争を与えた」のではないかと問いかけた。最後に「何人にも悪意を抱かず,すべての人に慈愛を持とう。神が我々に示す正義に立って,我々が着手した事業をやり遂げるために努力しよう。国民が受けた創痍を抱きしめ,戦いに斃れた者,その未亡人と遺児たちを助け,いたわるためにあらゆる努力を傾けよう」と静かに訴えた。
このコラムではこれまで,第16代大統領の資質,話法,選挙手法や人心掌握の技法に着目してきたが,融和と結束を呼び掛けるこの演説は,そうした技巧や政治的計算を超えた道徳的高潔さや宗教的謙譲さで満たされている。4年前に,北部の大義と共和党の党是を正当化し,南部を刺激しない「耳障り」の次元で,盟友スワードと額を寄せ合って最初の就任演説の推敲を重ねた作業(「挙国一致内閣の真髄」)が,ほんの小手先のことに思われてくる。
分断から融和に至る前夜の合衆国国民が,神の摂理の下に互いの立場や利害を相対化し,融和と結束を呼び掛ける大統領の声を聴いた4週間後,ついに南部の首都リッチモンドが陥落し,その2週間後,リンカーンは凶弾に倒れた。著者グッドウィン女史は,評伝の最終章でも,大統領の弁論に「預言」めいたヴェールをかけることをせず,最期まで家族や同僚,知人や仇敵との関係性において複雑な政治家像を彫琢している。首都ワシントンの人々は,今日も巨大なリンカーン像に温もりを感じ,ホワイトハウスに姿を現す亡霊を愛し,罵り合った後でも互いを理解し合おうとする誠実さを,この指導者に求めてやまない。この評伝を読まずとも,人々は心の奥で,融和と結束の淵源がリンカーンの「超人的強さ」ではなく「人間的弱さ」にあり,それが決して為政者一人の偉業ではなく,様々な対立と矛盾に満ちた政治家や国民の共同作業であったことを知っている。
アメリカ合衆国の建国理念が国民の厳粛な祈りと願いに由来すべきことを,リンカーンはゲティスバーグの両軍激戦の地で「人民の(人民による,人民のための)政治」と謳った。世界史に響くこの演説は3分にも満たず,写真屋が機材を調節している間に終わったとのことである。
[参考文献など]
- 『Team of Rivals: Political Genius of Abraham Lincoln』Doris Kearns Goodwin著(Simon & Schuster社)2005年10月
- 本コラムの第1回(1月11日)『分断から統合へ:米歴史家の眼』
- 第2回(2月1日)『ライバル考:リンカーンと3人の好敵手』
- 第3回(3月1日)『勝ちに不思議の勝ちなし:リンカーンの政治的資質と選挙手法』
- 第4回(4月5日)『昨日の敵は今日の友:リンカーンに見る融和と結束の技法』
- 第5回(5月10日)『挙国一致内閣の真髄:競い,おぎない,聴き,決める』
- 第6回(6月7日)『4通目の辞表:超党派内閣の絶えざる摩擦と遠心力』
- 第7回(7月5日)『リンカーンの亡霊:連邦国家の天目山,アンティータムの戦い』
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