世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
醗酵と発酵
(社会福祉法人・国際経済労働研究所 所長・京都大学 名誉教授)
2025.06.23
「醗酵」という言葉には,郷愁を誘う響きがある。ところが,合成化学の専門家たちは,「醗酵」の字を使わずに「発酵」を使っている。ある解説を例に取ろう。字数の都合で言葉使いは変えてある。
「発酵とは,食品に微生物が増えることによって起こる現象のことである。腐敗も,その現象の一つで,食品に付着している微生物が増えることによって起こる変化のことである。つまり,発酵とは微生物の活動が引き起こすものである」(前橋健二の談話,「日本の食文化に欠かせない「発酵」の世界」より)。
同じ「はっこう」(fermentation)なのに,「醗酵」と「発酵」の二つの漢字が使われている。それは,旧体字と新体字の差異でもない。
同じような事例は他にも数多くある。「燈」と「灯」,「鴎」と「鷗」などがそれである。
「醗」の字が「当用漢字」から外されたことが,「発酵」という新しい表現が生まれた理由である。
当用漢字は,1946年11月5日に「国語審議会」が答申し,そのわずか11日後の同年11月16日に内閣が告示した「当用漢字表」に掲載された1,850の漢字を指す。「当用」の意味は分からない。「さしあたって用いる」の意味なのかも知れない。
当用漢字表は,さまざまな漢字のうち,「制定当時使用頻度の高かったもの」を中心に構成されたといわれている。公文書や出版物などに用いるべき漢字として政府が推奨したものである。当用漢字表から3年後,簡易字体が正式字体とされた。
第二次世界大戦前から,漢字廃止論者,漢字制限主義者,表音主義者たちが,漢字は数が多く学習に困難であるから制限または廃止すべきであると主張していたが,敗戦までは漢字改革は行われないでいた(ウキペディア「当用漢字」)。
日本を占領した「GHQ」(General Headquarters,連合国軍総司令部)が,漢字を廃止しようとしていたとよくいわれている。GHQは,「アメリカ教育使節団」(United States Education Mission to Japan,大学の学長,教授,教育行政官から編成された27人)を,1946年3月,1950年8月と二度にわたって日本に派遣した。日本で調査した結果,使節団は,二つの報告書をGHQに提出した。
1946年の第一次報告書には,「いずれ漢字は一般的書き言葉としては全廃され,音標文字システムが採用されるべきであると信じる」と記されていた。日本語をローマ字表記にして,漢字習得にかける勉強時間を外国語や数学の学習にあてるべきだとしたのである(村井実訳,講談社学術文庫,1979年より)。
GHQの「教育使節団」は,難しい漢字のせいで日本人の識字率が低いことを示そうと,全国調査を命じた。調査は,1948年8月に,全国から抽出された約1,7000人を対象に行われた。1問1点として90点満点で採点され,平均点は,100点満点に換算して78点だった。正解がゼロ(識字できない人)は2%程度にすぎなかった。これは教育使節団の想定とまったく異なっていたことであり,漢字廃止には至らなかった(山脇岳志「GHQだけではなかった「漢字廃止論」 いま、漢字を使い続ける意味を考える」)。
本当の問題は,識字率の水準にあったのではない。難しい漢字のかなまじり文が,それを書く人の教養の高さを示すという日本の古来からある悪習を打ち破ることこそが,緊急に取り組むべき課題であった。
そこには,GHQに取り入っていたとの悪評を受けていた「国語審議会」の涙ぐましい貢献があった。
「漢字制限論」を唱えた有力な人物は,作家の山本有三(1887~1974年)であった。
戦後,GHQの勧告を受けて文部省は,国語政策を提言する組織である「国語審議会」の中に,「標準漢字表再検討に関する漢字主査委員会」(以下,主査委員会)を設けた。その委員長が山本だった。
山本は,1946年の「主査委員会」において,それまでの「常用漢字」という言葉ではなく,「当用漢字」への名称変更を提案して了承された。山本には,社会情勢に応じて,数年ごとに修正し,将来は別に作る「教育漢字表」(義務教育期間中に読み書きともにできるようにする881字)の線に近づけたいという意図があったという(安田敏朗『国語審議会・迷走の60年』講談社現代新書,2007年より)。
GHQが,漢字を廃止してローマ字表示にせよと日本側に強く迫ったことのみが,マスコミで喧伝され続けたが,私は,GHQは前向きの日本の国語改革に大きく貢献したと信じている。
例えば,天皇による「敗戦の弁」を例に引こう。不敬罪に当たるであろうが,私はこの「弁」に大きな怒りを覚える。敗戦の悲しみを民衆に訴え,民衆とともに,泣くのなら,民衆に分かる言葉で語るべきであった。
現在の多くの人々は,北朝鮮の指導者を賛美する大袈裟な言葉使いをする『労働新聞』に肩をすくめているだろう。
しかし,戦前の日本の大本営発表の文体は,その何倍もの心のこもらぬ難解なものでしかなかった。
現在,分かりやすい文体にしようと,多くの人が努力するようになったのは,GHQの「教育使節団」と「国語審議会」のお陰である。
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