世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.3703
世界経済評論IMPACT No.3703

江戸時代中・末期の日本人による驚異的な翻訳造語

本山美彦

(京都大学 名誉教授・国際経済労働研究所 所長)

2025.01.27

「鎖国」という語を日本で最初に使ったオランダ通詞の志筑忠雄

 「鎖国」という用語は,五代将軍・徳川綱吉の時代に2年間しか出島に滞在していなかったドイツ人医師,エンゲルベルト・ケンペル,Engelbert Kämpfer(1651 - 1716)が著した『日本誌』の中で使った言葉である。

 正確に言えば,1801年にケンペルの著書の中の一部をオランダ語版から翻訳した蘭学者(元はオランダ通詞)の志筑忠雄(しづき・ただお,1760 - 1806)が,それを「鎖国論」という題で翻訳したことが,鎖国という言葉の始まりであった。

 翻訳作業というものは,単に外国語の会話ができるだけでは成り立たない。日本語には情緒的な単語は多いが,西欧的な意味での科学用語はほとんどなかった。オランダ人,特に世界的な水準の科学者の思想を日本語に翻訳するには,新しい単語を発明しなければならなかったのである。

 志筑は,まず原文に対応する言葉を日本や中国の古典に求めた。仏教用語なども探した。志筑が発明した用語には,「求力」(引力のこと),「万有求力」,「属子」(分子のこと),「真空」,「重力」などがある。それでもうまくいかない場合には,発音をカナで表記し,原語を並記した(新戸雅章『江戸の科学者-西洋に挑んだ異才列伝』平凡社新書,2018年)。

 志筑には非常に高い学力であった。そうした高い学力を有していたのは志築だけではない。青木昆陽,野呂元丈,前野良沢,平賀源内,大槻玄沢,杉田玄白,稲村三伯,馬場佐十郎,青地林宗,渡邊崋山(江戸時代の日蘭交流)。宇田川榕菴,宇田川玄随,宇田川玄真,箕作阮甫。中でも,宇田川榕菴が翻訳とそれに加筆した『舎密開宗』は日本初の本格的な化学書となり,「酸素」,「窒素」,「炭素」などの元素名,「酸化」,「還元」,「溶解」などの化学用語を創りだした(「津山藩の蘭学者たちは日本の夜明けを学問で支えた」(まっぷる編))。

 ちなみに,旧制三高は,1869年,化学・物理の学校として大阪に開局した「舎密局」(せいみきょく)を起源とし,その後,1889年に京都に移転,1894年に第三高等学校の名称となったものである。

 小藩の津和野藩も多くの俊秀を輩出した。

 西周,森鴎外,福羽美静,小藤文次郎,福羽逸人(参考資料:藩校養老館)。

 中でも西周(にし・あまね,1829 - 97)は明治維新の学界に君臨する突出した人物であった。榎本武揚とともに,オランダのライデン大学に留学。「哲学」,「真理」,「芸術」,「理性」,「科学」,「知識」,「定義」,「概念」,「命題」,「心理」,「物理」,「消費」,「取引」,「帰納法」,「演繹法」,「権利」などが西周の造語と言われている。中津藩(豊前国下毛郡中津,現在の大分県中津市)出身の福沢諭吉も,「自由」,「経済」,「演説」,「討論」,「競争」,「共和」,「抑圧」,「健康」,「楽園」,「鉄道」などの日常生活に即した言葉を創った(参考資料:「西周(にし あまね)和製漢語で新しい学を開く」(合同会社ワイライトより))。

 2年以上の滞在を許されなかったオランダ商会の知識人(多くの場合,医師)たちが,帰国後,母国で日本に関する膨大な数の資料を発刊できたのは,彼らを支えていた数多くの日本の優れた通詞がいたからである。

 いわゆる鎖国時代,出島にはオランダ人の通訳はいなかった。

 かつての出島の住人であったポルトガル人は,長期滞在して日本語を操り,キリスト教の布教を行なったのだが,オランダ人にはそれが許されなかった。キリスト教が厳禁されてしまったからである。キリスト教の布教を厳しく取り締まるため,オランダの商館長(カピタン)はわずか1年の滞在しかは許されなかったので,カピタンは1年交代であった。その他のオランダ人は出島に閉じ込められ,限られた日本人としか接触は許されていなかった。つまり,オランダ人には日本語を習得する機会が与えられなかったのである。

 その空白を埋めるべく,幕府は,直轄管理で,日本人のオランダ語通訳官「阿蘭陀通詞」の養成を組織的に進めていたのである。

(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article3703.html)

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