世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
対米関税交渉の行方:米英経済繁栄協定(EPD)から考える
(桜美林大学 名誉教授・国際貿易投資研究所 客員研究員)
2025.06.02
4月2日に発表された米国の「相互関税」は,4月5日から一律10%のベースライン関税の課税が開始されたが,当該国との入超額などによって税率を決めた相互関税,つまりベースライン関税に上乗せされた関税率(日本の場合は14%)は,4月10日から7月8日までの90日間,中国を除き,課税が停止された。この停止期間中に,米国は当該国の非関税障壁の撤廃,対米輸入拡大策等について交渉を進め,その成果によって上乗せ分を調整する方針をとっている(本誌4月28日付の拙稿No.3808参照)。
この交渉状況については,米国側からも,当該国側からも断片的な報道しかないため,詳細が分からない。しかし,米国は他国に先駆けて英国との交渉を終え,5月8日,米英経済繁栄協定(EPD:U.S.-UK Economic Prosperity Deal)を発効させた。ホワイトハウスが同日付で発表した6項目から成るEPD協定およびそのファクトシートから,合意のポイントは次の通りであることがわかる。
まず注目されるのは,第1に,相互関税制度のうち,一律10%のベースライン関税が軽減されることなく,税率は10%のまま維持されている。このことは,今後,他の国との間で関税交渉を合意しても,相互関税政策の基盤として,ベースライン関税の税率が変更される可能性は全くないことがわかる。
第2に,英国は米国の貿易黒字国(2024年の黒字額は国際収支ベースで113億ドル)であり,相互関税対象国の57ヵ国にも含まれておらず,そのため上乗せ関税賦課の対象国にもなっていない。それにも関わらず,英国が米国に関税交渉を求めたのは,トランプ政権が3月以降発表した自動車,鉄鋼・アルミ製品に対する25%の追加関税を回避することにあった。EPD協定の締結によって,英国の自動車は米国向けに年間10万台まで10%,10万台超には25%の追加関税を課すことで米国は合意した。英国の対米自動車輸出は年間10万台程度だから25%の関税上乗せはほぼ完全に回避されたことになる。また自動車部品については,協定には具体的な内容が書かれていないが,新たに協定を締結することが明言され,鉄鋼・アルミ製品についてはMFNベースの輸入枠を早急に設定し,医薬品・医薬品原料については特恵待遇措置について改めて交渉することが明記されている。
第3に,こうした米国の譲歩の見返りに,英国は対米輸入の拡大に合意している。米国産牛肉は現行20%(1000トンまで)の関税を撤廃し,1万3000トンの米国産牛肉および14億リットルの米国産エタノールに特恵無税枠が新設される。
第4に注目されるのは,EPD協定が米国の相互関税制度に関する協定という枠を超えて,英米両国が,物品・サービスの貿易および投資の促進と深化に深くコミットした点にある。協定には農産物市場アクセスの拡大,規格認証制度の整備,デジタル貿易の促進,経済安全保障に関わる連携と強化などが盛り込まれた。EUを離脱した英国が対米経済関係の強化に強い意欲を示していることは,スターマー英首相がEPD協定の締結を第二次大戦における欧州戦勝80周年になぞらえていることからも窺える。
英国の成功に対してEUの対米交渉は難航している。EUの欧州委員会は対米関税交渉が決裂した場合には,航空機,自動車・同部品など950億ユーロ相当の米国産品に報復関税を賦課し,44億ドル相当の鉄鋼スクラップや化学品に輸出制限を検討していた。しかし,トランプ大統領が上乗せ関税の90日間停止を発表したため,EUはその発動を先送りした。その後,トランプ大統領はEUとの協議が進んでいないことにいら立ち,5月23日,6月1日からEUからの全輸入品に50%の関税を導入し,米国製ではないスマートフォンには6月末にも25%の関税を課すとTruth Socialで警告した。
トランプ大統領の脅しを受けて,EUは対米協議を加速することとし,フォンデアライエン欧州委員会委員長は5月25日の日曜日,トランプ大統領との電話協議で,6月1日の50%関税賦課期限を7月9日に延期する合意を得た。しかし,米国の対EU貿易赤字2367億ドル(2024年),相互関税率20%(上乗せ関税率10%)のEUが,今後1ヵ月余りで米国を満足させる提案を出せるか否か,極めて注目される。
米国の貿易赤字額が687億ドルの日本は,米国との関税交渉を真っ先に始め,対米交渉担当の赤澤亮正経済再生相は4月17日,5月2日,24日,30日(いずれも日本時間)と,正にとんぼ返りで4回も訪米し,米側の対日交渉担当のベッセント財務長官,ラトニック商務長官およびグリア通商代表と交渉を続けている。これほど多くの交渉をワシントンまで出掛けて進めている国は,日本以外にはないであろう。
しかし,日本の真剣さに対して,米国側は「交渉は相互関税の上乗せ部分のみ」との主張を崩していない。米側が,自動車,自動車部品,鉄鋼などで日本に対し英国が獲得したような譲歩を行ったとの報道は,いまのところ聞こえて来ない。日本の新聞で報じられているのは,アラスカ産液化天然ガスの輸入拡大,米国の造船産業支援など本筋と離れた問題ばかりである。いよいよ関税交渉期間は残り1ヵ月余りとなり,7月8日が目の前に迫ってきた。
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