世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
蔡英文物語:ドン底に陥落した民進党を救った台湾初の女性総統
(九州産業大学 名誉教授)
2024.05.13
来る5月20日,蔡英文総統は2期8年の総統任期を終え,後任者の同じく民主進歩党(民進党)の頼清徳次期総統にバトンタッチする。頼清徳・蕭美琴ペアの総統・副総統選挙用に制作したキャンペーンビデオ「在路上」では,乗用車の運転席に蔡英文総統,助手席に頼清徳副総統が乗り,2人の会話を映している。以下にその要点を伝える。
- 頼:「外は風(ライバル)が強いが,運転は安定している」
- 蔡:「傍で見てくれているので,安心して運転ができる」
- 頼:「国会の議席が過半数を越えないと空転し,前に進まなくなることが心配。様々な分野から優秀な人材を招聘することに努力するだけ」
- 蔡:「良いことだ。多くの優秀な人材が入閣し,国会議席も過半数を維持することで国家は正しい道を進むことができる」
(サイドミラーに映る1台の青いトラック(国民党のシンボルカラーは「青」)と白の小型車(民衆党のシンボルカラーは「白」)は異なる道に逸れた(異なる路線を歩む意味を暗示)。
画面には「交棒(バトンタッチ)」の文字が書かれた(次期総統にバトンタッチ)。
次の画面では頼が運転席に,蕭美琴駐米代表(大使)が助手席に座り,蔡英文は車外に立った。
- 蔡:「私より上手に運転ができている」
- 頼:「彼女がいるので大丈夫」
- 蕭:「私たちに任せて。私たちはこれからも民主主義の道を進みます」
- 頼:「民主主義社会は多様性を受け入れることができます。そして平和と民主主義が無ければ台湾は存在しません。今の台湾はこれまで多くの人々が努力してきた結果なのです。私は台湾のすべてを命を賭けて守って行きたい」
1月13日の台湾総統選挙で勝利をおさめた与党・民進党の総統候補頼清徳と副総統候補蕭美琴は,5月20日をもって蔡英文総統から国家運営の重責を引き継ぐ。
誕生から政治家への道
蔡英文は1956年,台湾南部の屏東県楓港で,自動車修理・売買,不動産投資,飲食業を営む,実業家蔡潔生の次女として誕生した。台湾大学法学部卒業後,コーネル大学大学院で法学修士号取得と,同時に米国の弁護士資格も取得した。その後,ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで法学博士号を取得した才女である。台湾に帰国後は,政治大学で教鞭を取るようになった。
1985年には経済部(経済省)国際貿易局の顧問として知的所有権を担当した。1994~97年,台湾のWTO加盟交渉の山場において蔡もその任にあたり,その結果2001年に台湾は正式に加盟することができた。
1994年に行政院(総理府に相当)大陸委員会(対中政策担当の最高部署)の諮問幕僚,96年に国家安全委員会諮問委員,98年に台湾の海峡交流基金会の初代理事長である辜振甫の訪中団(第2回「辜汪会談」=辜振甫と中国の海峡両岸関係協会の汪道涵会長のトップ会談)の一員として随行した。1999年7月,ドイツの放送局ドイチェ・ヴェレによる李登輝総統へのインタビューの中で,李総統は台中両岸関係を「特殊な国と国の関係」と表現,「二国論」を展開した。蔡英文はこの原稿を草稿した一員であると言われている。
その後,2000年に誕生した初の民進党陳水扁政権において,蔡英文は大陸委員会主任委員(閣僚)に抜擢された。2004年には民進党に入党し,立法院委員(国家議員)に選出された。2006年に蘇貞昌行政院長(首相に相当)の副院長に抜擢され,とんとん拍子で政治の中枢に駆け上がった。
しかし,2008年3月21日の総統・副総統直接選挙では,民進党の候補者謝長廷(現在の駐日代表=大使)・蘇貞昌のペアが,国民党の候補者馬英九・蕭万長に200万票以上の大差で敗れるという敗選ショックに見舞われた。次期民進党主席選挙には蔡同栄と台湾独立派の大物辜寛敏(野村総合研究所研究創発センター主席研究員リチャード・クーの父君)が名乗りを上げたが,葉育津(立法委員)は「民進党は女性党員を理解せず,女性党員も民進党を誤解している。これからは女性の力で民進党が牽引されることを期待する」と述べた。
女性初の党首,挫折から総統への道
同年5月18日の民進党主席選挙で蔡英文は,党員数13万人の約57%に相当する7万3800票以上を獲得し,第12代の党主席に選任された。民進党初の女性党主席で,且つ最も若い党主席でもある。当時,民進党の中には美麗島系,新潮流系や海外独立派の台独連盟,中間派の正義連線,福利国連線など多くの派閥が存在した。そのいずれにも属さない蔡英文は,「学者出身の腰掛的党主席に過ぎない」と冷ややかな目線で見られたが,当の蔡は「私は派閥に縛られる要因がないため,自由に仕事ができる」と述べた。
2008年11月6日,中国の国務院台湾事務弁公室トップの陳雲林が海峡両岸関係協会(略称:海協會)代表団を引率し訪台,馬英九総統と面会した。これに対し蔡は,民衆の先頭に立ってデモを行い,民衆も民進党に溶け込むようになった。その結果,2009年末の統一地方選挙(三合一選挙)で民進党は健闘した。蔡は「統一地方選挙で民進党の得票率は史上最高であり,私たちは遂にドン底から這いあがることができ,党務運営も安定するようになった」と述べた。
2010年の新北市長選挙に蔡は立候補したが,国民党の朱立倫に11万票の差で負けた。2012年中華民国総統選挙でも,蔡(得票数609万票)は馬英九総統(同・689万票)の再選を阻止できず,党主席を引責辞任した。敗選宣言時,多くの支持者が涙を流しながら,翻意を求めた。しかし,選挙で負けると辞職するのが民進党の創設以来の習わしであり,蔡に残留する選択肢はなかった。それでも600万票以上の支持票の重荷を感じた蔡は,敗選の翌日民意調査センターに出向き,馬氏との差である80万票の理由を尋ねた。そこで得られた回答は「民衆と共に一緒に生活すると,庶民が何を求めているかが分かり,何ができるかも分かる」というものだった。その後,蔡は積極的に各地の都市や農村を回り,民意を聞き取るようになった。蔡にとってこの期間は捲土重来のための準備期であり,数年の間に蔡は大きく変わった。
2012年5月27日に行われた党主席選挙で元行政院長である蘇貞昌が選出され,2014年5月に行われた次期の党主席選挙では,蔡が返り咲きを果たした。
2014年3月,馬英九政権は中台間のサービス分野の市場開放を目指す「サービス貿易協定」を半ば強引に議会で通過させた。これに反発した学生と市民らが立法院(国会議事堂に相当)を占拠した「ひまわり学生運動」が勃発,与党・国民党に対する不満が民衆の間に高まった。その影響を受けて,2014年11月に行われた統一地方選挙(九合一地方選挙)の直轄市・県知事・市長選挙で,民進党議席は6席から13席に増え,逆に国民党は12席から6席に減少した。さらに,2016年1月の総統選挙にも影響を及ぼし,蔡英文・陳建仁ペア(689万票)は国民党の朱立倫・王如玄ペア(381万票)を300万票凌駕し,民進党最多の投票数を獲得したが,2018年11月の地方統一選挙の直轄市・県知事・市長選挙で国民党は6席から15席に大きく躍進し,逆に民進党は13席から6席に大幅に減り,蔡は再び党主席を辞任した。
香港民主化デモ(2019年の「逃亡犯条例改正案」の反対を発端とする「五大要求」の達成を目的とするデモ)において,中国が香港返還に約した「一国二制度,50年不変」という香港に対する扱いを,僅か20数年で破棄した。この姿を見た台湾住民は,いつか同様の事態が我が身に降り注ぐのではと警戒しはじめ,親中路線の国民党よりも親米・親日路線の民進党に投票するようになった。その結果,2020年1月の総統選挙に蔡英文・頼清徳ペア(817万票)は国民党の韓國瑜・張善政ペア(552万票)を再び最多投票数で破り,再選を果たした。「中国要因」により再び,蔡は救われたことになる。
蔡政権は「親米,友日,抗中,保台」(親米・親日路線,中国の対抗し,台湾を保護する)の基本的な政治スタンスとし,台湾と中国との関係については台湾の民意である「現状維持」を堅持している。また,中国の軍備拡大の影響を受け,「潜水艦国産計画(海鯤号の国産化)」,「軍艦国産計画」や「戦闘機国産計画」を推進し,徴兵制度も4カ月から1年に延長した。また,新型コロナ対策で優れた成果を挙げ,マスク,防疫医療衣服などの隣国への寄付(“Taiwan can help”キャンペン)など国際から称賛が得られた。
蔡は2015年の『TIME』誌の表紙に登場し,同誌の記事「彼女は華人を指導する世界唯一の民主国家(She could lead the only Chinese democracy)」と称賛された。蔡英文総統の2期8年間の活躍に敬意を表したい。
[参考文献]
- 蔡英文著,前原志保訳『蔡英文自伝:台湾初の女性総統が歩んだ道』白水社,2017年。
- 蔡英文著,前原志保監訳,阿部由理香・他訳『蔡英文:新時代の台湾へ』白水社,2016年。
- 朝元照雄「頼清徳・蕭美琴が台湾総統・副総統当選の意義:台湾の有権者の選択と各国の反応」世界経済評論Impact No.3298,2024年2月12日。
- 朝元照雄「頼清徳物語:次期台湾総統選挙の最有力候補者」世界経済評論Impact No.3231,2023年12月25日。
- 朝元照雄「蕭美琴物語:駐米大使の最有力副総統候補者」世界経済評論Impact No.3246,2024年1月8日。
- 朝元照雄「台湾の統一地方選挙,与党・民進党の惨敗」世界経済評論Impact No.2775,2022年12月5日。
- 朝元照雄「蔡英文総統の主張:国慶節で何を語ったのか」世界経済評論Impact No.3149,2023年10月16日。
- 朝元照雄「蔡英文総統は国慶節の演説で何を語ったか?:対中政策の「4つの堅持」」世界経済評論Impact No.2319,2021年10月25日。
- 朝元照雄「台湾に学ぶ:新型コロナウェルス対策はなぜ成功したのか?」『世界経済評論』Vol.65 No.1,2021年1・2月号。
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