世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.3385
世界経済評論IMPACT No.3385

日本国における農業政策のあり方

高橋岩和

(明治大学 名誉教授)

2024.04.22

 TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)における農業分野の交渉では,「農業においても競争により生産性の向上が実現でき,日本経済全体の底上げが進む」ということが主張された。

 この主張は,大規模農家(「プロ農業家」「より生産性の高い農業者」)の生産性が上がれば,競争力の低い中小零細規模農家(「補助や保護でかろうじて農業を続けている人たちや兼業農家の人たち」)が農業市場から退出しても,全体として農業の生産性が上がるというものである。

 このような主張に沿って現実の農業政策が,農業法制(農地の所有,農産物の流通などに係る法制)の規制緩和,税制優遇,財政出動などと緊密に組み合わされて一貫して実施されれば農業の生産性は一定程度確かに上がるであろう。

 しかし,このような中小零細規模農家の「市場退出論」,もう少し有り体に言えば「切り捨て論」が本当に日本農業の未来戦略となるものかについては疑問なしとしない。

 第一に,大規模農家は米,欧州,豪,亜細亜の農産物輸出国との農産物を巡る価格と品質の競争に勝っていけるであろうか。どこまで行っても埋めることのできない生産規模格差とそれに起因する価格差を埋める方策(農業の生産性上昇の実証データの提示)は示されてはいない。近時,メディアの伝えるのは日本農産物の国際競争力どころか,世界的干ばつによる食糧輸入の危機,国際紛争多発による食糧安全保障の脆弱性の指摘ばかりである。第二に,中小零細規模農家の退出した後の「地方の農村共同体」の姿を描けるのか。地縁・血縁で結びつけられた安定的な地域社会,そこで受け継がれ,守られてきた伝統文化の維持,発展はどうなるのか。そのような農村共同体の姿も示されてはいない。近時,大手マスメディアの伝えるのは,伝統的な地域の祭りの継承すらままならない地域共同体の疲弊した姿ばかりである。

 日本農業について今日考えるべき点は,「農業により支えられてきた地方の村落共同体」こそが,単なる「農村における農産物生産のシステム」ということ以上に,日本社会における高度の社会的統合の姿(日本的市民社会)であり,その維持・存続をはかることは日本国にとってなにものにもまさる農業政策上の重要な課題なのではないかという点であろう。安全保障をアメリカに依存し,エネルギーを海外に依存する日本が,「地方の村落共同体」を失わせるような農業政策を採用した結果,充分な農業における生産性上昇を得られず,さらに村落における日本的市民社会まで衰退するとすれば,50年,100年のうちに独立国としての存立までもが根底から脅かされるおそれが生じるように思えてならない。

 こうして,日本農業の未来を考えるなら構想すべき点は,大規模農家の競争力ではなく,中小零細規模農家の競争力をどう高めるかという問題であるように思える。「かろうじて農業を続けている人たちや兼業農家」の「市場退出」をはかるのではなく,これらの農家の農業を高度化・ハイテク化する農業政策こそが選択されるべきなのではないのかと思えるのである。

 中小零細規模農業を維持・発展させ,農業分野への若人の新規参入を促すためには,農業労働を機械化・ネットワーク化により合理化し,農業を六次産業化(農業,製造業,サービス業の一体化,すなわち1+2+3=6次化)させ,さらには消費市場との連携をハイテク利用により強化するなどが必要であろう。これらを官民挙げて振興し,中小零細規模農業者を核とする地方農村の「再生」をはかることこそが,日本の明るい未来をその基底において切り開くものであるように思える。

 近年の交通網の発展,通信網,とりわけインターネットの充実は,かつての東京と地方の生活,情報,文化における「格差」をほぼ消滅させたと言いうるであろう。地方に居住しながら「都会的生活」を享受することが格段と容易になっている。むしろ農村に生活しながらでも,東京その他の国内大都市をも越えてパリ,ロンドン,ニューヨークなどの世界の大都市と生活感覚を物のレベルにおいても,情報・文化のレベルにおいても共通のものとできる段階に達しているともいえるであろう。

 こうして結論的に言えば,農業における日本の未来は,プロ農業家,最終的には企業参入による生産性の高い農業を目指すことによってというより,現在「かろうじて農業を続けている人たちや兼業農家」を,情報通信網と交通網の高度発展を前提として,生産と流通・消費の総合的ネットワークにより結びつけ,農業における技術革新と高度の「協業化」を促進させること,これらを目的とした「機動的」農業政策からこそ開けてくると言うべきであろう。

 農業政策の基本となる「食料・農業・農村基本法」において,農業の持続的発展,食料の安定的確保のためのさまざまな方策が規定されている。それらは企業を含めたプロ農業家を育成することを柱とし,緊急事態における米などの重要品目の生産・出荷計画を定めるものである。そこには本稿で述べてきたような情報通信網と交通網の高度発展を前提として,中小零細規模農業者を生産と流通・消費の総合的ネットワークにより結びつけ,そのことによって中小零細規模農業者を核とする地方農村の「再生」をはかるという農業政策はない。

 しかし,農地の集約化と生産規模の拡大は,中小零細規模農業者による「日本的市民社会」の存続・発展と唇歯輔車(しんしほしゃ)の関係にあるべきものであって,両者の密接不離の関係の展望があってこそ日本農業の明るい未来は切り開けるものであると思う。

(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article3385.html)

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