世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.2572
世界経済評論IMPACT No.2572

日本人の矜持:フィンランド人の矜持との比較で考える

高橋岩和

(明治大学 名誉教授)

2022.06.20

 ロシアの侵攻を受けたウクライナでは祖国防衛のための自衛戦争が続いている(2022年6月現在)。ロシアとの戦争という点で,フィンランドも過去ロシアに二度に亘り侵攻され,それら戦争に破れて領土を割譲した歴史を有している。フィンランド人は,対ロ戦争後にも「独立は維持し,共産主義化されずに自分たちの民主主義を守り抜いた」という歴史から生まれてきた「決してあきらめない心」を持っているという。このような心を同国語で「シス」と言い,それはフィンランド人の国民性を表す言葉であるという(石野裕子「フィンランドNATO加盟申請」読売新聞2022年5月24日朝刊文化欄)。

 このフィンランド人の矜持に係る記事に接して,日本人は今日自国についてどれだけ「矜持」を持っているだろうかと考えた。今日の日本人はもちろん自国について矜持を持っている。皇室を戴いて千年を超える長い歴史を持っていること,明治維新を成し遂げて独立を維持したこと,日清戦争,日露戦争,日独戦争の戦勝国であったこと,茶の湯,生け花,能・狂言,浮世絵などの個性ある歴史的文化を有すること,近年は,大東亜戦争の軍事的敗北にもかかわらず戦後高度経済成長をなしとげて世界有数の経済大国となったこと,寿司などの和食やアニメが世界的認知を得ていることなどから生まれてくる「矜持」を有している。これらは主として文化的伝統や経済的成功に関わった矜持である。

 しかし,日本人がフィンランド人のような「独立と民主主義を守り抜く」という自国の歴史に係る矜持をどれだけ有しているかとなると,いまなお心もとないものがある。特に1930~1940年代の昭和前期の歴史については,自国なりの歴史観をいまだに確立しえていないようにみえるからである。

 今日の通説的な歴史観によれば,この時代は「対米英支侵略戦争」の時代であり,日本の「不正義の時代」であった。どのように仲の良い欧米の友人との間であっても,またそれが酒の席の会話であっても,このような歴史観に異をとなえようとすると「お前は歴史修正主義者なのか」と反問されて,「いや決してそうではない」と答えるしかないような強い心理的圧迫を覚える。この場面で「そうだ」と答えることは,そののちの友情にひびが入り,あるいは友人関係が終了することを覚悟しなければならないように思えるのである。

 しかし,にもかかわらず,この時代について自分なりの歴史観を持ちたいという願望には強いものがある。そこで自分なりの観点で歴史をみようとすると,先ずなによりも前提となる歴史的事実についての知識を豊かにすることが必要となるが,そのためには二次的文献ではなく,昭和前期を生きた人たちがどのように考え,どのように行動したかについての当時の直接的な史資料にあたることが必要となる。そこで,当時の直接的な史資料(当時発行された著作,雑誌,新聞など)にあたってみると,昭和前期の歴史はまぎれもなく戦争の連続の時代である。それは,日本が中国東北部に出兵した満州事変(1931年)から始まっている。当時,日本は寄留民保護の名目で同地に出兵し,占領地の現地住民による満州国の樹立を支援した。その後も日本は宣戦布告もないままに戦闘を継続し,やがて戦いは支那事変へと拡大して,ついには大東亜戦争の開戦となった。支那事変は大東亜戦争の一部となり,同戦争は米英を中心とした連合国との四年近い戦いの後,1945年(昭和20年)8月に日本の軍事的敗北により終結した。

 以上のようなこの時期の中国大陸での戦争をどうみるかが問題となる。残された史資料からみると,当時の日本政府の認識では,中国大陸に米英ソの資金および武器弾薬の支援をうけた中華民国(重慶政権)と日本の支援を受けた中華民国(南京政権)が併存しており(他に延安の共産党政権もあった。),日本は南京政府との間では日華基本条約を締結して(1940年,改訂1943年)),順次租界の還付,治外法権の撤廃,関税設定権の返還などを実施して和平を進め,重慶政府との戦争は継続していた(駐兵権保持)。日本政府の認識では,日清戦争の後の三国干渉で日本が遼東半島を返したことをきっかけにして,清国は欧米列強に租借・租界権,治外法権,鉄道利権,鉱山利権,関税設定権などを付与することとなり,日本も同様の権益を獲得した。日本政府はこのような中国の「半植民地的状況」に終止符を打ち(米英両国も1943年1月に日本とは別個に重慶政権に対して租界還付,治外法権撤廃等に関する条約を結んでいる。),そこから進んで,共存共栄の原則に基づく大東亜の建設に進もうとしていた。

 以上のような経緯は,日本政府の認識では,大東亜戦争は米英両国が東洋制覇の非望をたくましくし,武備を増強して日本に挑戦したものであり(大東亜戦争開戦の詔書),同戦争は日本が終始東洋の解放に協力せる諸盟邦と共に戦ったものであった(終戦の詔書)。

 以上のような経緯は終戦後の東京裁判で「平和に対する罪」を構成するとして,戦争指導に当たった日本政府関係者が訴追され,有罪とされた。平和に対する罪の構成要件は,侵略戦争その他不法な戦争のための「共同謀議への参加」である。「共同謀議」は,共同謀議者,共同謀議の内容,共同謀議の実行を要素とし,軍人の一派と大川やその他の官民の支持者が「共同謀議者」であり,東アジア,西・西南太平洋およびインド洋を日本の支配下におこうとしたことが「共同謀議の内容」であり,中国,ソビエト連邦,米英その他の国への戦争行為が「共同謀議の実行」である。この「共同謀議の実行」は,日本の政府の諸機関の支配の獲得を第一段階として,中国,ソビエト連邦,米英さらにはオランダ領極東領土への侵略を第二段階とするものであった。

 このように,平和に対する罪の構成要件は,軍閥による日本政府支配と日本政府による違法な戦争の遂行であったが,この時代においても明治憲法の定める立憲君主制のシステムは動いており,「統帥部による国務の支配」には立証し得るような事実関係はなかった。ドイツにおけるようにドイツ政府がナチ党党首と党員により占められていると云ったものでは全くなかったからである。東条英機への組閣の大命と罷免も,憲法のもとで立憲君主制のシステムが厳格に運用された結果である。

 また「侵略戦争の遂行」は,不戦条約(1928年)違反ではあったが,その解釈は,「予防的自衛権」の行使を認めず,正当防衛の場合に限って自衛権の行使を認めるという厳格な解釈によるものであり,東京裁判で主導権を取った当のアメリカが予防的自衛権も自衛権に含まれるという広義の自衛権解釈をとっていたことと整合する解釈論ではなかった。このような解釈に基づく違法性の認定により被訴追者に刑罰を科することには無理があったということになろう。

 以上,昭和前期の歴史に係る今日の通説的な歴史観には検討の余地がまだあり,これを再考することで自国の歴史に矜持を持てるようなあらたな歴史観を形成しうるであろうことについて述べた。その際,当時の日本政府がいかなる目的をもって,どのように行動したのかについての歴史的事実の探求と,なぜそのように考え,行動したのかについての各事実間の因果関係を探求することが歴史研究の第一歩であることはいうまでもないことである。

(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article2572.html)

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