世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
常山の蛇:杉浦重剛の国家安全保障論
(明治大学 名誉教授)
2025.07.21
杉浦重剛は,昭和天皇の皇太子時代に東宮御学問所で倫理をご進講した人である。同学問所での皇太子に対する帝王教育は歴史,国文,数学,フランス語,美術史,馬術など十六科目が七年間(1914~21年)にわたって教授されたが,倫理はその中核をなす科目であった。
杉浦の倫理のご進講は,勇気,責任,親切といった普通倫理から,仁愛,任賢,納諫(のうかん),決断,操守といった帝王倫理におよぶものであった。それは皇太子が将来の天皇としてとくに帝王倫理を身に着けた立憲君主として即位するためのものであった。
ご進講された帝王倫理は,政治・外交論,国家安全保障論,経済論,家族論の各分野にわたり,さらに思想(日本儒教論,勤王武士道論など),宗教(日本仏教論など),文化(とくに和歌を中心とする国風文化論)におよぶものであった。以下ではこれらのうちから国家安全保障論について述べてみることとしよう。
杉浦の国家安全保障論は,欧米列強にアジア圏で一人対峙する大正時代(1910~20年代)の帝国日本の危うい立場を反映して,極めて厳しいものである。
杉浦はご進講において,国家安全保障の心構えを,
- 一旦緩急あれば義勇公に奉し(教育勅語),
- 国内の融和最も大事なり(上和下睦),
- 敵の来らざるを思うて心を安んずるなかれ(無恃其不来),
- 国の備えは万全を期せ(常山の蛇),
- 国の備えは深くはかるべし(遠慮近憂),
- 背水の陣をもって臨むべし,
と幾重にも国の守りを固めるよう説いている。
杉浦のこの認識が杞憂に終わらなかったことは,1941年に欧米列強に対する大東亜戦争(太平洋戦争)を開戦し,それが軍事的敗北に終わった帝国日本の歴史のしめすところである。
杉浦の説くところで,筆者がもっとも興味を惹かれるのは杉浦がつぎのように第一次世界大戦におけるドイツの対仏攻撃の例をあげている点である。
“近く欧州の大戦乱で,ドイツは開戦の当初にベルギーを突破して,直ちに仏国に侵入し,ほとんどパリを危うからしめたり。是そもそも何が故ぞ。仏人が中立国たるベルギー方面の防備を薄くしたるが為なり。仏人はなぜにこの方面の防備を薄くしたるか。彼らは曰く,中立国を通過すべき理由なきを以てなりと。・・・正義人道なり,国際連盟また固より可なり。然れども,この如き言語の末に惑わされて直ちに軍備を縮小し,国防を忽(ゆるがせ)にする如きことあらば,あるいは恐れる,我が国も亦急難に遇いて而して狼狽を免れざるべきを。”
(「無恃其不来」杉浦重剛『倫理御進講草案』所収)
この文で杉浦は,フランスはドイツに初戦で敗れたが,その理由は中立国であるベルギーをドイツが攻撃することを想定しえなかった―フランスはドイツが国際法を遵守すると信じたからである―と言っている。
フランスはなぜ「中立国が戦争の局外者である」と信じたか。それは百戦錬磨のフランスにして戦時国際法への理解が足らなかったからである。
こんにち,日本の大学で法学部へ入った新入生は「法学入門」の講義で「法とはなにか」「国際法は法か」という問いを投げかけられる。法が法たる由縁はそれが実力で担保されているからであり,国際法は違反に対する制裁がない,あるいは弱いがゆえに国内法と同じ意味で法とは言えないと教えられる。
フランスの議会と政府は当時,実力の裏付けのない法が法の名に値しないものであるという国際社会の現実にあえて目をつぶっていたのである。
杉浦はリアリストであったから,この点,「無恃其不来」という題のご進講で兵法家孫子を引いて,「敵の来らざるを思うて心を安んずるなかれ。吾は何時敵の来るあるも之を防御すべき準備の充分に整え居るを恃みとすべし」と皇太子に説いた。
杉浦はつぎに,しからば国の備えはいかようにあればよいかと問い,国の備えは万全を期せと述べて孫子の「常山の蛇」の比喩をもって(孫子・九地篇)つぎのように説いた。
“常山の蛇,首を討てば尾これを救い,尾を打てば首之を救い,中を打てば首尾共に之を救う,兵を用いるも亦左右翼,前軍,後衛,いづれも互いに相助けて通利自在なるべきをいうなり。我国,列国対峙の形勢あり,日本南北に長し,ゆえに北中南を一体とすべし。「国民全体の協和一致」大事なり。協和一致を得るには,先ず徳教を十分に施して,国民の精神を涵養することを以て基礎とすべし。是いわゆる王道なり。然れども孫子は兵家なるを以て更に之を説き,呉越同舟を以て比喩とす。我が国の現状を観察せば「呉越同舟にして暴風に遇う」の有様なり(これは死地に陥るとき人々勇気を等しくして一の如くならしむることをいう。これまた背水の陣なり)。我が国民にして真に覚醒したらんには,宜しく国家の為に小異を捨てて大同を取り,相互に協力して沈溺の禍害を免るることに努力すべきなり。常山の蛇は即ち民心の一致に基づく。民心の一致なくんば事あるにあたりて必ず敗れる。これ孫子の説く所にして,また他の兵家も其の所見を一にす。孟子曰く,天時不如地利 地利不如人和。”云々
杉浦はこうして,常山の蛇は即ち民心の一致に基づく,民心の一致なくんば事あるにあたりて必ず敗れる,と説いて,国の防備の基本は兵事における君の仁愛の情であり,国民における上和下睦の精神(団結心)であることを想起させている。
杉浦はつぎに,しからば常山の蛇の備えをする国をいかに破るかと問い,「仮に常山の蛇勢いを得るあるも,之を破るは反間(はんかん)にあり」と説いている。「反間」とは,敵の内部に入り,敵情を味方に知らせて,敵を混乱させることである。
これは後方攪乱であり,今日の言葉でいえば武力によらない静かな侵略行為,すなわち「間接侵略」ということであろう。国民の間に対立・抗争を惹起せしめ,国民の相互協力・団結心をそぐためのさまざまな活動である。
現今の日本社会の実情をみて,いささかの危惧を覚えずにはいられないのは筆者一人ではないであろう。
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