世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
情報の非対称性という悪夢
(杏林大学総合政策学部 教授)
2024.02.26
ミクロ経済学の教科書で取り上げられる概念のひとつに「情報の非対称性」というのがある。これはいわゆる不確実性の一種なのだが,とりわけ,問題となる財やサービスについて,それを供給する側と需要する側とで保有する情報が異なる状態を指していう。そしてそれは市場メカニズムが最適な状況を必ずしももたらさない,いわゆる「市場の失敗」を引き起こす要因とされている。
一つの例としてお金の貸借を考えよう。ここで重要な情報は,お金を借りた人の返済能力である。返済能力を確実に知ることができるのであれば,問題はない。もし,借り手の返済能力が高いのであれば低い金利で貸すことができるし,逆に返済能力が低いのであれば,それに応じてプレミアム付きの高い金利を設定したいところだ。しかし,お金を貸す側は,借りる人が自分について知っているほどには,その人の返済能力を確実に知ることはできない。そこで間をとって,その中間ぐらいの金利を設定することになる。ところが,返済能力が高いことを自負できる人にとっては,この金利は高すぎることになる。したがって,そういう人は借りることを諦めて,この市場から退出してしまう。そしてその結果,残るのはより返済の能力の低い人びとということになる。それがわかっているから,貸す方もさらに高めの金利を設定するようになるのだが,これは,まだ残っていたやや返済能力の高い人びとにとっては,やはり高すぎる金利となってしまい,この人びともこの市場からいなくなる。残るのはさらに一層返済能力の低い人びとであり,こうして金利はますます高く設定されることになる。あとは,みなさんが実際に目にしているとおりである。
ここで問題なのは,情報の非対称性が存在すると,市場メカニズムの作用として「質の悪いもの」が市場に残ってしまうことである。これを「逆選択」というのだが,これはなんとも由々しきことではないだろうか。というのも,市場の競争メカニズムに対しては,少なからぬ人が一抹の非情さ,冷酷さを感じるものの,やはり競争があるからこそ,品質やサービスの改善がもたらされることを期待して,いわば必要悪として認める面があるのではないだろうか。それなのに,競争の結果,むしろ質の悪いものが市場に残るとなれば,もはや堪忍袋の緒も切れようというものではないか。
それに対して市場メカニズムの絶対性を信じて疑わない人びとの決まり文句は,それがあくまで例外的な事象である,というものである。はたしてそうだろうか? レストランの料理がお金を払って食べるに値するか,さまざまな本は買って読むに値するか,医療サービスや健康食品の有効性,等々,はいうまでもなく,そもそも一般的な財・サービスの品質について,われわれはそれを供給する人たちほど知らないのである。いや,このコラムだって,わざわざ時間をかけて読むに値するかどうかは,読み終わってみるまでわからないのである(!)
この状態を放置すると,質の悪いもののみが市場に残ることになる。われわれは通常,その情報不足を補うためにさまざまなものを利用する。財であればブランド,料理であれば,タイヤ会社のガイドブックが付ける星の数とか,お店の前に行列ができているとか,芸能人のサインがたくさん掲げられているとか。本であれば,書いた人の知名度や学歴,「発売以来◯◯万部突破!」,あるいは書評やユーザーレビュー,口コミ,等々,というわけだ。
しかし,話がそれで終わらないのがこのコラムである。われわれが情報の非対称性を補うべく利用するそれら玉石混交の情報は,どの程度信頼に足るものなのだろうか? そう! まさに情報の非対称性を補うために利用する情報の信頼性についても,情報の非対称性が存在するのである。そこを補わなければ,質の悪い情報のみが出回ることになり,われわれはその質の悪い情報に基づいて,情報の非対称性を補わなければならない・・・。
人が並んでいる店には,さらに人びとの関心が集まる。売れている本を書く人の本はそれだけでまた売れる。タレントは,本を書いても,絵を書いても,服をデザインしても,料理を評価しても注目され,信頼される。これはいわば一種の「バンドワゴン効果」である。要するに,売れるものは売れているがゆえにますます売れるのである。それが本来の質の高さに対応しているという保証はない。しかもそれは社会的格差がさらに一層拡大することに拍車をかける働きをする。
合理的な意思決定に基づく市場経済モデルを信じて疑わない人は,われわれがいかに不確実性の中で不安定な意思決定をしているかについて,あらためて考えてみる必要がある。それは決して例外などではない。ましてや,蔓延する情報の非対称性が,格差をもたらす一要因でもあるなどと,誰が考えるであろうか?
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