世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.3231
世界経済評論IMPACT No.3231

頼清徳物語:次期台湾総統選挙の最有力候補者

朝元照雄

(九州産業大学 名誉教授)

2023.12.25

 2024年1月13日に実施される台湾総統直接選挙まで余すところ1カ月を切った。与党民進党の頼清徳・蕭美琴組,野党国民党の侯友宜・趙少康組,民衆党の柯文哲・呉欣盈組による三つの巴の選挙争いが,世界で注目を集めている。本稿では最有力候補者とされる頼清徳氏の誕生から,政界に身を投じるまでの個人史を紹介する。

炭鉱労働者の子から医師への道

 上述の総統候補者のうち,現副総統である頼清徳の政治家としての履歴は卓出している。頼氏は1959年に台北県(今の新北市)万里郷に,炭鉱労働者の頼朝金(父親)の第5子(6人兄弟姉妹)として誕生した。しかし,生後数カ月で,炭鉱内の火災事故で一家の大黒柱である父を失った。代わって母親が,炭鉱労働者の出入りや石炭搬出のための台車の機械操作で生計を支えた。頼氏は小学時代から学業は良く,鉛筆や筆箱などの褒賞を度々もらった。高校は台北市で最難関の男子校,建国高中(高校)に合格し,万里中学卒業生としては初の合格であった。1978年に頼氏は台湾大学医学部リハビリ学科に入学,大学時代は家庭教師で学費と生活費を捻出した。

 卒業後,1年10カ月の兵役を終え,頼氏は台北市萬華仁済医院に物理治療師として務め,再度,1986年に学士入学試験を受験し,国立成功大学医学部に入学した。1987年には大学時代に知り合った呉玫如と結婚,頼氏は内科腎臓領域で尽力し,学部第3位の成績で卒業,その後,大学病院に残り主治医師を担当した。

 1980年代,中国国民党が一党独裁で台湾を統治していた時期,「独裁反対・民主自由化の実現」を目標とする「党外民主化運動」が盛んになり,頼氏も成功大学病院で民主化推進派政治家の講演に共鳴,医学の領域から台湾の民主化活動に関心を寄せるようになった。1994年,陳定南が第1回台湾省長直接選挙に立候補し,頼氏は台南医師後援会会長として助選陣営に参加したが,残念ながら陳氏は落選した。頼氏の熱心に陳氏陣営で活躍する姿に,同じく医師出身の立法委員(国会議員)洪奇昌が注目した。頼氏を民進党に招じ,1996年の国民大会代表(国会議員,2005年6月7日,憲法修正案による国民大会の機能は停止)に立候補するよう説得した。当初,頼氏は固辞したが,その後,続いた数年間の説得に,遂に立候補の要請を受け入れた。

政治家への道

 1996年に頼氏は37歳で政界に足を踏み入れ,国民大会代表選挙に当選,2年後の1998年には第4回立法委員選に当選した。毎週水曜日の夜,頼氏が支持者からの相談を受けるタウンミーティングを催し,医師に診断してもらうように,民衆は「陳情要請シート」に要件を記入,頼氏は陳情要請の空白欄に要請の解決結果を記入,1週間後に返事を戻した。10数年に及ぶ立法委員在任中に,陳情件数は10万件を越えたと言う。

 立法委員の立法院(国会)の休会期間を利用し,妻と長男・次男を連れて,頼氏はハーバード大学公衆衛生大学院修士課程に入学した。台湾から出国するときには都度,記者会見を開き,台南(選挙区)の市民に対し,自身がハーバード大学公衆衛生大学院に在籍している間の市民奉仕の仕方を説明した。頼氏は3年間で修士学位を取得し,その後の選挙では立法委員への再任も果たした。

 頼氏の立法委員在職期間には,重要な法令である「労働基準法」を推進した。その理由は,高校時代に母と交わした会話にあると言う。頼氏によれば「彼女(母)は頻繁に転職したため,19年間に及ぶ勤務実績が年金算定時に加算されず,定年後,大変惜しい思いをした」と言う。頼氏は労工委員会(労働省)主任委員(長官)の陳菊に意見書を提出。本件は労働者の権益として非常に重要であると強調し,法制度を修正した。

 立法委員に4回も連続当選し,優秀立法委員の1位と評され,党内ライバルの許添財と蘇煥智に“打ち勝ち”,2010年に直轄市に昇格した台南市長選挙の候補者として民進党から正式に承認を得た。昇格後の第1回台南市長選挙に頼氏は得票数の61万9897票(60.41%)で,国民党の郭添財の40万6196票(39.59%)を21万票以上の大差をつけ,当選した。頼氏には地縁関係はなく,実力によって,外地出身者として初の台南市長に当選した人物になった。

 公務訪問で「大内」地方を訪れた際,高齢の女性に「私たちが住むこの辺に路線バスがなく大変不便である。何回も要求したが,何の反応がない。市長さん,この問題を解決できないか」と陳情を受けた。頼氏は交通問題を解決するため,路線バスの再構築を行った。これにより路線バスの利用者は就任前に年間700万人だったものが,就任1年後には2000万人と3倍近くに増えた。2014年の「ひまわり学生運動」により,世論が国民党に厳しくなり,同年の第2回台南市長選挙に,頼氏は71万1557票(70.89%)で,国民党の黄秀霜の26万4536票(27.11%)を大差で下し,再任を果たした。

 2016年2月6日午前3時57分に高雄市美濃区を震央としてマグニチュード6.6の地震(「台湾南部地震2016年」)が発生し,台南市永康区の地上16階,地下1階の高層ビル「維冠金龍大樓」が倒壊し,地震全体の死者の9割以上に当たる115人の死亡が確認された。地震後1時間内に頼氏は現場に到着し,救援活動の指揮をとり,8日間内に289人を助け出した。救援活動と震災後の再建は,高く評価され,翌年9月に蔡英文政権の行政院長(首相に相当)に抜擢された。

 頼氏は行政院長に就任後,「実務内閣」と自らの内閣を位置づけた。例えば,産業構造の転換,原子力発電からグリーンエネルギーへの転換,「一例一休」(週休2日制)の導入,少子高齢化による社会問題解決が挙げられる。また,就任後に公務員給料の3%値上げを実施し,前任の行政院長による年金改革で公務員にくすぶる不満を解消するため士気鼓舞を図った。

 頼氏の行政院長就任後,「7つの経済指標」を記録したという。すなわち,(1)株価が1万ポイントに上昇し,これを1年間以上保持。(2)来台観光客が2年連続1000万人を超える。(3)直近3年間で最も高い経済成長率。(4)過去17年間で最低の失業率。(5)史上2番目高い3174億ドルの輸出額。(6)史上新記録を更新した4928億ドルの輸出受注。(7)史上記録を更新した4515億ドルの外貨保有高である。

 こうした輝かしい実績にも拘わらず,統一地方選挙で民進党は大敗を喫するようになった。2014年には13あった民進党の県知事・市長のポストは,2018年の選挙では基隆市,桃園市,新竹市,嘉義市,台南市,屏東県のわずか6つの県知事・市長を獲得したに過ぎない。それによって,蔡英文総統は引責,党主席を辞任し,頼氏も次年度の総予算が立法院(国会)を通過後した機に行政院長を辞職した。

 2020年1月の総統直接選挙に,蔡英文総統と頼氏の民進党党内代表の出馬におけるアンケート調査の結果,蔡英文が頼氏の27.48%を上回る35.67%の支持を集めた。2019年11月に蔡英文総統は副総統の候補者として頼氏を指名した(台湾総統選挙は米国大統領選挙と同じように,総統と副総統(大統領と副大統領)の連名で候補者として出馬)。

 その後,香港の民主化デモ(雨傘運動)により,台湾の民意は民進党蔡政権に傾き,支持率は急回復するようになった。2020年の総統選挙の結果,蔡英文・頼清徳組が817万231票(57.12%)を取得し,国民党候補者の韓国瑜・張善政組の552万2119票(38.61%)を凌駕し,蔡総統は再選を果たした。

 当選後,頼氏は訪米し,副総統の身分で全米祈祷朝食会議に出席し,トランプ大統領など重要な高官と面会した。2022年1月,ホンジュラス大統領シオマラ・カストロの就任式に代表団を引率し参加した。同年7月,狙撃により死亡した安倍晋三元首相の葬儀には,蔡総統の総統特使の身分で参列した。

 しかし,2022年12月の統一地方選挙で,民進党は澎湖県,嘉義県,台南市,高雄市,屏東県のわずか5つの県知事・市長の座の取得に過ぎず,大敗の責任を取り蔡英文総統は党主席を辞任,後任者選挙で頼氏が党主席の座を獲得した。頼氏は党主席就任後に「4つの党務革新」を提起した。それは,(1)積極的に「黒金政治」(黒は黒道(マフィア,暴力団),金は金牛(選挙の買収)の略で政治が金と力に操られること。政治の腐敗を意味)を絶する。「学倫問題」(修士論文盗作事件)を解決する。(2)積極的に民主的原則による人材の追加・補欠。(3)積極的に民進党を支持する多元的パワーを求める。(4)積極的に若者世代のニーズに応えることだ。

 2023年3月,民進党内で総統選出馬代表の登録を行い,4月12日に頼氏が候補者に正式決定された。頼氏は28年間に及ぶ政治家としての歩みを,2024年1月13日の総統直接選挙でさらなる一歩を踏み出すべく目標に向かって邁進する。

[参考文献]
(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article3231.html)

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