世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
なぜ国際関係論は国際関係学にならないのか
(一般社団法人 KKアソシエイツ 代表理事)
2023.11.06
一般に知られた40余りの学問分野は,理系(自然科学)と文系(人文・社会科学)に大別されるが,このうち文系の各分野の日本語での羅列を眺めてみると,ひとつ気になることがある。法学,政治学,経済学,社会学等々と同列にあってもよいはずの国際関係学がないのである。私はキャリアとしては所謂事務屋だったので,アカデミアの世界での学術研究の事情には全く明るくないが,学生時代には一応,国際関係論(以下,国関)を学び(学士を東大教養学部,修士を英国オックスフォード大学),社会人としてほぼ一貫して国際分野の公共政策に関わってきた身のせいか,なぜ日本ではこの分野がいつまでも○○論のままで○○学に昇格(?)しないのかという素朴な疑問を抱いてきた。
たかが呼称ではあるが,名は体を表すという。因みに「論」は英語でtheoryだが,「学」の部分の直訳にあたる英単語は見当たらない。例えば経済学はeconomics,政治学はpolitical science,歴史学はhistory,社会学はsociologyだが,国関はinternational relations,略してIRである。IR theoryなどといった表記は目にしたことがないので,日本に輸入された際の定訳は国際関係学でもよかったはずだ。
こんなことに私が拘る原点は,古い話ではあるが45年前,卒業謝恩会での衛藤瀋吉教授(1923~2007)の訓示にある。衛藤教授は中国近代史を専門とする著名な歴史政治学者だったが,東大教養学部(駒場キャンパス)のみならず日本に国関という学問分野を確立させた文字通りのファウンダーだった。訓示とは「学生諸君は,たとえ在学中に大して勉強しなくても,法学部を卒業すれば法学士,経済学部を卒業すれば経済学士だが,国関を学んだ君らは教養学士,つまり何の専門家でもない。それはコンプレックスとなるかもしれないが,社会に出てからはむしろ強みだと思いなさい」であった。衛藤教授のこの言葉は,我々卒業生に対する叱咤激励であると同時に国関という学問の核心をつくものであった。本稿では,なぜこの分野が未だに日本語で国際関係学と呼称されないのかについて,経済学などとの対比を意識しつつ以下の3つの理由を指摘することによって思いを巡らせてみたい。
第一の理由は,国関はその研究領域が極めて広く学際的であることである。国関は歴史学を母,政治学を父として誕生した学問とも言われるが,それ以外にも経済学,法学,社会学,地理学等の既に確立している多岐にわたる学問分野と知の共有が不可欠だ。しかしながら,このような学際性と学問領域としての専門性・自己完結性の両立は容易ではない。日本のアカデミアの世界では,多くの分野について広く浅く知見があるだけでは学術論文とは認められないだろうし,学者扱いもされない。ロシアのウクライナ侵攻とガザ地区でのイスラエル・パレスチナ軍事衝突は目下の最大の国際問題であるが,毎日のようにTV等マスメディアに登場し解説している面々は,いずれもロシア東欧や中東地域あるいは軍事の専門家ばかりで国関の専門家と自称する学者は皆無である。
国関が社会科学の領域であるからには,何らかの客観的で合理的な議論や仮説に基づく研究分析が必須だが,それがなかなか一筋縄ではいかない。これが第2の理由である。ここで同じく人間の行動分析を研究対象とする経済学の場合と少し比較してみたい。欧州が発祥の地の社会科学,とりわけ経済学は18世紀にフランスで誕生した啓蒙思想に強い影響を受けているので,伝統的に合理的人間(ホモ・エコノミクス)を前提とする学問だった。このため,現在では自然科学の領域である物理学や数学をフル活用(借用)して理論やモデルを構築することが主流のようだ。やや蛇足だが,日本はこれまで28名ものノーベル賞受賞者を輩出しているのに,これだけ大勢の学術研究者を抱える経済学分野ではノーベル賞候補にすら名前が殆ど上がらないのは数学が弱いからだという説明を受けたことがあり,妙に納得していた。しかしながら,今世紀に入って心理学を援用した行動経済学なる領域でノーベル経済学賞が授与されていることは,国関のあり方についての議論にも実に示唆的である。素人の勝手な推測ではあるが,昨今の行動経済学の大流行の背景には,人間は常に合理的行動をとるという無理な前提に立って自然科学にすり寄り過ぎてきたことへの反省,あるいは反動があるのではないだろうか。
ただ,経済学の場合には金銭的な損得という比較的単純な動機に基づく人間行動(個人,集団)が研究対象なので,合理性の理屈で説明がつく部分が少なくない。ところが国関となると遥かに複雑で,自然科学の援用はさらに困難だ。国関では,しばしば不合理で不可解な意思決定を行い矛盾に満ちた行動をとる人間の本性,とりわけ国家指導者や権力者らの動機や行動パターンを分析対象としなくてはならないので,経済学の場合よりもはるかに合理的分析のハードルが高い。
第3の理由は上記の第2の理由と深く関連するが,独自の学問領域を確立させるにたる一般理論やモデルの構築が容易ではないということである。日銀のゼロ金利政策や量的緩和(QE)をFRBはじめ諸外国の中央銀行が自国の金融政策で追随したり参考にしたりできたのは,経済学の場合には汎用性のある一般理論やモデルと膨大なデータの蓄積があったからだろう。科学と呼ぶ以上は精緻さや実証性が求められるが,国関ではそもそもデータの収集が困難であるうえ,数学や物理学的アプローチで強引にそれを追求すればするほど現実の世界の出来事からかけ離れてしまう。一般理論であれモデルであれ,それが現実を説明する何らかの実学的な要素がないと実社会には受け入れられない。
以上はいずれも学術研究としての国関のハンディのようなものだが,欧米諸国ではそれを事実上,克服した研究成果の事例がいくつも見出せる。例えば,歴史人口学や家族人類学をベースに国際社会を分析し,早くからソ連崩壊を予見し的中させ,現在はウクライナ戦争の背景と影響について独自の視点から論陣を張っているフランスのエマニュエル・トッド氏。戦争が起きる原因を5つの要素に一般化し,ギャングの抗争から世界大戦まで分析することによって平和工学という実証的で実効性のある概念を提示したシカゴ大学のクリストファー・ブラットマン教授。イラク,北アイルランド,インド,フィリピン等世界各地で発生した多数の内戦の共通要因を分析することによって今日の米国で内戦(第2次南北戦争?)が勃発する可能性について警鐘を鳴らすカルフォルニア大学のバーバラ・ウォルター教授らの学術業績である。
彼らの説得力のある現実的な議論は,各国の外交政策を担う為政者にも参考となり得る知見であり,敢えて日本語にすればまさしく国際関係学と称するに相応しい。閉ざされた狭いアカデミア内でしか共有されない抽象論では,実学として広く国内外で高い評価や共感を得るような斬新な知的フロンティアの開拓は期待できない。日本で国際関係学との呼称が一般的になるまでには,まだ暫く時間がかかりそうである。
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