世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
香港国安法は香港の何をどう変えたのか
(亜細亜大学アジア研究所 教授)
2023.06.26
逃亡犯条例改正に端を発した香港の大規模抗議行動から4年,またそれを制圧するために中央が制定した香港国家安全維持法(国安法)が施行されて3年が経つ。これによって香港は何がどう変わったのだろうか。
北京から見れば,返還後「一国二制度」原則に阻まれて手出しのできなかった香港の自治に介入する道を開いた。2010年代には雨傘運動が起きるなど統治基盤が弱体化し,国家安全(体制転覆)の抜け穴となっていることに危機感を強めた習近平政権にとって,一国二制度の再定義,仕切り直しに成功したと言ってよい。一国二制度方式による統一を呼びかけていた台湾では民進党がこれを拒絶する姿勢を明確にして台湾住民の支持を得たのは事実だが,香港統治に不安を抱えたままで台湾統一もありえない。習近平政権の大きな成果である。
香港社会は当時の混乱から平穏を取り戻したものの,それは活気に溢れていた往時とは異なる姿だった。市民が国安法に委縮したというよりも香港政府が神経質に北京の顔色を窺い,過敏に反応するようになったことが大きい。国安法の条文に抵触するか否かではなく,北京がどう思うのか,国内で許されないことが香港でも許されるはずがないということが肌感覚で伝わってきた。それまで意識することのなかった自由空間はあっという間に本土基準に収斂した。
2年前に『アップルデイリー』紙が廃刊に追い込まれたのは象徴的な事例だが,最近では風刺漫画の連載終了,これらの作品や民主活動家の著作物が公共図書館からの撤去などピリピリした対応が続く。抗議デモで歌われた楽曲「香港に栄光あれ」も政府が配信禁止令を出すよう裁判所に求め,ネット上からも絶滅寸前となっている。
天安門事件犠牲者の写真や遺品などの資料を展示し後世に伝えようとしていた六四記念館は2年前に閉館。毎年市内の公園で行われていた六四追悼集会は20年にコロナ感染拡大を理由に公園での集会を禁止,21年は「公安条例」を盾に警察が公園への立ち入りを禁止,22年は立入禁止区域が公園の外にまで拡大された。今年は防疫措置を理由とした規制は解除されたものの親中派団体が返還祝賀イベントを開催。香港政府が協賛し,周辺では防弾チョッキなどで武装した警官が数千人規模で警戒に当たるものものしさだった。
穏健な政治団体も活動空間は狭まり解散に追い込まれ,デモ申請は政治とは無関係でもなかなか許可が下りない。デモ隊の主張が途中ですり替わるようなことがあっては警察の責任問題になってしまう。区議会議員は議席全体の9割超を占めた直接選挙枠が452から88に激減,さらに立候補にあたって愛国者基準に合致するか資格審査があるので間違っても政府に批判的な人物が入り込むことは不可能である。ガス抜きも全くない社会になった。
1989年の「政治風波」同様,2019年に香港で起きたことも歴史から消し去られたのだ。中国政府は鎮圧の成功を自賛する一方で,二度とあのような事態を起こしてはならないと香港政府に厳命する。これまではそれぞれが漠然と考えていた「絶対にやってはいけないこと」「起こしてはならないこと」「黙っていてもやらなければならないこと」を常に意識しなくてはならなくなった。
香港政府環境生態局の局長が,東京電力福島第1原発の処理水放出は国際法の義務に違反し,海洋環境と公衆の健康を危険にさらすと声高に批判し,水産物の禁輸措置を持ちだしているのはしっかりと北京の顔色を窺い,自分のやるべきことを理解しているからに他ならない。
政府・議会の大湾区(広東省)視察に理由をつけて不参加でもしようものなら忠誠心欠如の烙印を押されるので皆周りの目を気にしてか積極的に参加する。他方,精神疾患歴のある男性が香港内で起こした無差別殺人に対し,疾患者は大湾区に収容してはどうかと議会で発言した立法会議員はレッドカードである。
香港の基本ソフトから「自由放任」の文字はきれいに消し去られ,「港人治港」は「愛国者治港」に書き改められた。国安法という強力なハードパワーが香港の魅力であるソフトパワーを駆逐したのである。「去勢された」というのが近いかもしれない。
経済はこれまでとは変わらず回っているというが,政治とは距離のあった経済都市に余計な政治の色が付きすぎたのが国際ビジネス都市としては大きなダメージなのではないだろうか。
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