世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
自由主義政策と市場の機能評価
(国際貿易投資研究所 客員研究員)
2023.01.16
フリードマンの『選択の自由』は新自由主義のバイブル的評論集である。原著は1979年に出版,80年にはハイエク門下の後輩西山千明によって邦訳された。西山はフリードマン程自由主義謳歌論者ではなく,後発国の幼稚産業保護政策にもある程度理解を示している。様々な社会規制や許認可制度の国家的独占行為も確かに問題である。他方で,それが民間部門で自発的に対応できれば良いのだが,担い手がそこには充分配置されていないのである。つまり,西部開拓時代のようなガンマンが活躍する社会でも困るというのも,常識的な社会人の判断である。こうした事情がありながらも,80年代以降,世界的に採用された新自由主義政策はその後の所得格差を拡大したとして,最近の評価はあまり芳しくない。縷々感じいるところがあったので,同書を埃まみれの書架から取り出しもう一度読み返してみた。
第1章「市場の威力」で,フリードマンは中国の市場経済導入に関して,「『民間のイニシアティブ』という妖精を自由に解き放ってしまうと,遅かれ早かれ,逆にこれが原因となって,かえってよりいっそうの専制主義へと反動的に反転する結果になるという,政治的問題を発生させることになる可能性も存在している。」と指摘している。そして,続けて「年老いたチトー大統領がなくなれば,ユーゴスラビアは政治的な不安定へと突入することになり,反動的にこれまでよりもはるかに大幅な専制主義へと向かうことになるかもしれない。またこれと比べればはるかに可能性は低いことだが,ひょっとすると,現存の集団主義体制が崩壊するという結末を迎えることも,けっしてありえないことではない。」(p.94)
この預言・予言は見事に的中しているのではないか。こうした分析力は無辺際な文献考証に裏打ちされた知見であり,単なるデータサイエンスの計算能力を磨いただけでは獲得できないものである。フリードマンは新自由主義の威力と限界を肌身に感じているから,自由主義の復興を提起したのである。そして第2章の「統制という暴政」では「いうまでもなく,自由はけっして絶対ではない。われわれは相互依存の社会に生きている。われわれの自由に対する何らかの制限は,自由に対する他の,そしてもっと悪質な制限を回避するために,不可欠だといえる。」(p.114)と指摘している。この自由概念に基づく実際の経済政策や社会的施策は,好むと好まざるとに関わらず利子率や税率,給与査定基準等々のあらゆる実務的分野に反映していく。この査定や匙加減を誤ると社会的不公正が発生し,事態は思わぬ方向に向かうことになる。
おそらくソ連崩壊後の世界的富の不均衡という現象は,新自由主義が掲げる所期の政策目標とは異なった方向へ進んだ結果だったのだろう。もちろん同様に,それとは対極にある社会主義的統制も,理念や綱領は相当に立派なものである。しかし,それが合目的的で科学的であるという神的イデオロギー故に,この政治体制は一度エンジンがかかってしまうと,もう後戻りすることもギアチェンジも出来なくなってしまう。フリードマン・レベルの知識人なら,現在進行中のウクライナ戦争の勃発を予言することも,事態の進行方向も過不足なく見通せるだろうと思う。
民主主義といわゆる権威主義体制とは連続した一体的システムであり,二項対立の概念では捉えきれないものである。○〇主義と括りブラック・ボックスに押し込めれば,論ずることは容易くなるが,そのことが持つ危うさも同時に認識しておかないと,何処かの時点で迷路にはまってしまう。対中対立やミドルパワーといった縄張り論をことさらに強調し,対立を煽るよりも,多元的価値体系として異種融合を図る議論へ誘導することの方が,未来志向的ではないだろうか。しかし,天空の真理よりも天上天下唯我独尊の観念に支配されている人々も少なくないのである。世界はおそらくこのことも踏まえた上での,多元的価値体系でなければならないのだろう。神にも科学にも従いたくない。従えない。それ以前に,そのことを理解できないという一群の人々までをも,包摂しなければならないのが世界の宿命である。
中国は社会主義の最大限綱領の一環として,「共同富裕」という平等政策を推し進めようとしている。だが,そのため基礎的経済条件を高めるために,生産力理論に基づいた「富の増大」と大国化を志向しなければならず,巨大国家プロジェクトと対外進出を図らなければならなくなるのは,火を見るよりも明らかである。科学的社会主義論は成長主義と理想郷的理念を纏っており,非現実的な幻想的社会主義に脱落するとしか思えない。資本主義の体制的危機の根源を「搾取と収奪」に求めるという理論が存在しているが,社会主義の指導者はいつも「権力的収奪」の実態を忘れるか,置き去りにする。
なぜこうなるのか? 息の長い現代経済学はしっかりとした「定性的分析力」を踏まえて,初めて「定量的分析」を試みている。さらに定量的分析の集積の上に,定性的分析を齟齬なく修正している。これが理論考察上の「部分と全体」の有機的一体化である。フリードマンはそのことを,我々に何度も注意喚起しているのではないか。
関連記事
末永 茂
-
[No.3603 2024.11.04 ]
-
[No.3496 2024.07.22 ]
-
[No.3350 2024.03.25 ]
最新のコラム
-
New! [No.3627 2024.11.18 ]
-
New! [No.3626 2024.11.18 ]
-
New! [No.3625 2024.11.18 ]
-
New! [No.3624 2024.11.18 ]
-
New! [No.3623 2024.11.18 ]