世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.2667
世界経済評論IMPACT No.2667

効いてる論 vs 効いてない論

榎本裕洋

(丸紅経済研究所 所長代理)

2022.09.12

 7月にベトナムを訪問した。日本出発の前日,突如として左下の歯茎が痛み出した。海外出張だから飛行機にも乗るし,現地ではレセプションもある。何とかならないものかと思い,慌ててかかりつけの歯医者に駆け込んだ。担当医はまず視診,次にレントゲン検査を行った上で一言「ここ数日,極度のハードワークをされていませんか?」。図星である。ベトナムでの国際交渉に備え,連日交渉の作戦を練っており,そのためにかなりの睡眠不足に陥っていたのだ。その旨を伝えると,担当医は痛みの原因は炎症であるとして抗生物質と鎮痛剤を処方してくれた。それらを服用したところ,翌朝からは嘘のように痛みが消え,無事ベトナムでのスケジュールを終えることが出来た。

 上記のエピソードは問題解決に際し,解決策(処方薬)が効いた結果,中間目標(鎮痛)が達成され,その結果,最終目標(出張業務完遂)も達成されたケースである。翻って昨今の西側諸国による対ロシア経済制裁はどうだろうか。筆者の目には「効いてる論」と「効いてない論」がほぼ拮抗,専門家の間でもコンセンサスは得られていないように映る。

 コンセンサスが得られにくいのは,対ロシア経済制裁について中間目標と最終目標が明確に定義されていないことが原因だろう。批判を恐れずに言うと中間目標は「経済的に影響を与える」,最終目標は「政治・外交的に影響を与える」ことだと思うが,それぞれについて各専門家が設定する具体的な目標が異なるのだ。一例を挙げると最終目標を「ロシア軍のウクライナからの撤退」と設定している人もいれば,「プーチン政権に侵攻が戦略的失敗であったとわからせる」と設定している人もいる。にもかかわらず多くの専門家が「目標は自明」と思い込んで自身が設定する具体的目標を明らかにしないまま「効いてる」「効いてない」論を展開してしまうことが問題なのだろう。特によく目にするのが,中間目標と最終目標の混同だ。一例を挙げると2人の専門家が「経済的には効いているが,政治・外交的には効いていない」という共通の解釈を有しているにもかかわらず,経済に注目する側は「効いてる」論,政治・外交に注目する側は「効いてない」論を主張してしまうというものだ。

 そこで筆者からの提案は「目標マトリクス」の設定である。横軸に「短期」「長期」,縦軸に「中間目標(経済)」「最終目標(政治・外交)」と書き込んだマトリクスを用意する。そして4つのセルに各自が思う目標を設定のうえ,議論に臨むのだ。専門家同士でもこれらのマトリクスが完全に一致することはないと思うが,各専門家が設定する具体的目標が異なることが分かるだけでも建設的な議論に資するのではないか。

 因みに筆者自身は初期の段階から「効いてる・効いてない論」からは距離を置いてきた。前回の本欄への5/23付寄稿「ロシア経済:物価と輸出に注目」,週刊エコノミスト3/29号への寄稿「長期・持続的にロシア分離 エネルギー決済は『期限付き』」,同5/3・10合併号への寄稿「1次産品で高い世界シェア 制裁の抜け道は『新興国』」,いずれもタイトルが示すように制裁の特徴と注目点について述べるにとどめた。筆者が先述の「目標設定問題」を意識していたことに加え,経済指標を見てから判断したかった,政治・外交の素人ゆえ政治・外交問題(=最終目標)からは距離を置きたかった,などの理由もあった。経済制裁効果の分析は政治・外交と経済にまたがる学際的問題である。いわゆる「戦場の霧」が戦況のみならず経済統計をも覆い隠しつつある中,両分野の専門家による一層緊密な連携を望む。

(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article2667.html)

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