世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.2591
世界経済評論IMPACT No.2591

急速に進むセルビアからの人口流出:若手医師の事例を考える

小山洋司

(新潟大学 名誉教授)

2022.07.11

 セルビア(コソボを除く)の人口は2011年における7,236,519人から2020年には6,899,125人へと減少した。9年間に337,394人,すなわち,4.7%も減少した。人口の自然減もあるが,対外移住によるところが大きい。労働者,中でも高度技能労働者の急増する対外移住は憂慮される状況にある。欧州トレーニング財団(ETF)の報告書(2021)は次のようなショッキングな言葉で始まる。「セルビアの最も重要な輸出品目は労働であり,一般に想像されるような鉄,自動車またはラズベリーではない」。

 以下,医師の事例を取り上げて,頭脳流出の問題を具体的に考えてみよう。2020年にセルビアでは20,101人の医師がいた。医師の内訳を見ると,一般内科医は3,617人(18%),2,728人(14%)が専門医の訓練を受けているところであり,専門医の総数は13,756人(68%)であった。雇用されている医師の中での女性の割合大いに高く(67%),男性医師(33%)と比べると,非常に高い(Health Statistical Yearbook of Republic of Serbia 2020, p. 63)。現在の医師の多くは国を離れることを考えており,すでに若干の医療分野では必要な専門医を欠いているという。全部で1,186人の医師が外国で働いている。彼らは主に,専門のない医師,一般外科医,放射線科医,内科医,麻酔科医であった。比較的若い医師が外国へ移住するので,セルビアに残る医師は全体的に高齢化しつつある。

 医療労働者の賃金はドイツではセルビアよりも名目で5~6倍高く,実質でも3~4倍高い。労働条件の点でもドイツの医師は恵まれている。これらはプル要因として作用するが,人はそれだけでは動かないだろう。生まれ故郷への愛着や人間関係などもあるからである。だが,それにもかかわらず,人を外国へ押し出すような不利な諸条件,つまりプッシュ要因も存在する。たとえば,国内の不合理な制度などである。

セルビアの特殊事情

 第1に,社会主義時代,開業医は存在しなかった。1990年に35年ぶりに民間の医師による診療が可能になったのである。

 第2に1990年代前半および1999年の二度にわたる民族紛争によりこの国は経済的に壊滅的打撃を受けた。2000年12月にセルビアは国際社会に復帰し,多額の債務は大幅に軽減された。2008-09年のグローバル金融危機に際しても国際金融機関の支援を受けた。以上のようにたびたび国際的な支援を受けてきたが,それらとは引換えに,政府の経済政策はIMFなどの国際金融機関によってモニターされており,常に緊縮経済を強いられてきた。そのため,医療における公的セクターも合理化を強いられてきた。このように国際金融機関による縛りはきつい。そのような状況下で,2005年の保健省の布告が出されたが,それは当時,医師や医療関係の人員を解雇し,補足的な健康保険の導入し,共和国医療基金がカバーするサービスのリストから特定のサービスを除去するものであった。

 第3に,医療保険制度の問題がある。日本には皆保険制度があり,患者は公立病院で治療を受けようと,民間病院で治療を受けようと,その費用はかなりの部分は国民健康保険でカバーされ,患者本人が多額の負担をすることはない。セルビアでは医療システムの改革はうまくいかず,民間の診療所を受診する場合,患者は別途支払わなければならない。

 第4に,専門医の養成に関する制度変更がある。日本と同様,セルビアでは将来の医師は医学部で6年間学ぶ。日本でもセルビアでも専門医になるには専門研修をつむ必要がある。ところが,セルビアでは専門医が過剰だという判断の下で一時,専門研修が抑制されたのである。

ヴォランティア専門研修

 専門研修にさいして,そのとき若手医師が医療機関に勤務していれば,研修の費用はその医療機関が負担する。これが通常タイプの専門研修である。もし若手医師が医療機関に勤務していない場合,自分で費用負担することになるが,これがヴォランティア専門研修と呼ばれるものである。なぜ自分でカネを払ってまで専門研修をするかと言えば,医学部を卒業したばかりの医師が全員仕事を見つけることができたわけはないので,彼らは時間を無駄にしないように,そして仕事を見つける(国内または国外で)チャンスを高めるために,ヴォランティア専門研修に投資したのであろう。

 ところが,2005から2014年にかけてまる10年間,専門研修が抑制された。専門研修を受けるのは保健省の承認を得た者だけとされ,ヴォランティア専門研修は禁止された。こうした決定の背景には,当時,保健省がセルビアでは専門医が過飽和だと見ていたという事情がある。保健省は医療の一次診療の発展を計画していた。専門医の資格の取得を承認するための制限的な新たな基準が導入された。こうして明確な基準なしに,このヴォランティア専門研修が2004年に禁止されたのである。これにより,若手医師の外国への移住が増加し,同時に,国内での専門医の数が徐々に減少してきている。

 2014年に政策が転換した。かつてあった2つのタイプ,すなわち,「通常のタイプ」と考えられる専門研修,およびヴォランティア専門研修が復活した。医師資格を取得したばかりの若手医師の全員が通常タイプの専門研修に進むことはできるわけではない。残りの若手医師はヴォランティア専門研修に進むのである。

 ヴォランティア専門研修を修了しても若手医師には就職が保証されていない。彼らは不利な状況に置かれている。日本では2年間の専門研修の間,研修医には国から給与が支給されるのに対して,セルビアではヴォランティア専門研修の道を選んだ若手医師は4年間も所得なしの状態に置かれる。しかも,彼らは専門研修のために相当の金額を払っている。本人には大きな経済的負担であり,スポンサー(製薬会社がスポンサーになる場合もある)を見つけて払っている人もいるが,それは後で返済しなければならない。

 「国家はわれわれに対して何ら義務を持たない。あなたは容易に職を見つけるでしょうという言い訳で,賃金を払わず,何にも投資しない。保健省は戦略も持っていない」と研修医は怒っている。「国家の愚行のせいで,いまは若い医師は専門医としてドイツへ行くように見える」と医学部のある教授は怒っている。以上のようなシステムの欠陥もプッシュ要因として働いている。

 セルビアの置かれた厳しい経済事情のため,政府は研修費用を賄うことができないという事情は理解できないでもない。しかし,技能向上のため,若手医師が自分で費用を負担しながら専門研修を積んだにもかかわらず,国家は彼らに職を保証できないのは残念である。その結果,若手医師が次々と外国へ流出するのは当然かもしれないが,患者の側から見ると,いたたまれないことであろう。

(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article2591.html)

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