世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.2571
世界経済評論IMPACT No.2571

ミャンマーからの留学生

高橋 塁

(東海大学政治経済学部 教授)

2022.06.13

ミャンマーからの留学生受け入れ

 2021年4月に私は1人のミャンマー人留学生(ここでは仮にN君と呼称する)を大学院での指導学生として受け入れる予定であった。「あった」と過去形になっているのは,2021年2月1日にミャンマーで勃発した国軍のクーデターによる政変でN君は来日ができなくなったからである。

 N君は国際協力機構(JICA)の支援事業である「ミャンマー国農業セクター中核人材育成」の枠組みで日本の大学院に学び,農村開発を通じてミャンマーの発展を志していた。また農業畜産灌漑省の若手官僚ということもあり,農民の組織化と農業機械化による効率的な農業の模索,農業近代化を目指す研究を行おうと意気込んでいた。

 2021年4月から大学院で私が彼の指導教員となることが決まり,まずは2020年9月から研究生としてN君の研究に必要な専門的知識の基礎を指導することになった。新型コロナウイルス禍の影響で,来日がなかなかかなわず,オンラインでの指導となっていたものの,彼はいつも笑顔を絶やさず,来日することを楽しみにしながら一所懸命に学んでいた。

 そうした状況下,日本への渡航機会を模索していた矢先に,国軍のクーデターが起こってしまったのである。通信は制限され,民主化勢力は圧力を加えられるようになった。彼と連絡をとることもままならず,VPNなどを通じて彼も何とか連絡をとろうと試みていたようだが,2021年3月はじめに彼からもらったemail以降,直接連絡をとることができなくなってしまった。

農村と共同体

 私はベトナムの農村を対象にした研究を進めているが,ミャンマーについての知識は乏しい。そうした無知ゆえの素朴な疑問がN君を想う際に出でることがある。例えば,これまでミャンマーは国軍による抑圧的な政治が長い間行われていたにもかかわらず,今回のように民衆の抵抗が大きなうねりとなって表面化しなかったのはなぜなのかという疑問である。

 この問いについては,ミャンマー農村研究の第一人者である東京大学東洋文化研究所の髙橋昭雄先生の近著『ミャンマーの体制転換と農村の社会経済史 1986-2019年』(2021年,東京大学出版会)から多くを学ばせていただいた。同書には綿密な観察により導き出されたミャンマー農村の特徴に関する以下のような記述がある。

 「村内の集団や組織への加入も脱退も自由であり,村人は村に拘束されることなく,自律的に行動できる」(髙橋, 2021, 255頁)

 すなわちミャンマーの村は日本のように村の掟や倫理に縛られた強固な村人同士のネットワークをもつ村落共同体ではなく,二者間,個人間の実質的な付き合いの中で築かれた集団を基礎とすることが指摘されている。そして同書では,この「ダイアディックなネットワーク原理によって,〔中略〕権力からは不可視の関係性や組織が,硬直的な政策を吸収して雲散霧消させ,政権に対する不服やフラストレーションは村の中で極限状態に達することが少なく,暴発は小規模で希有であった」(同書,257頁)とされ,「『村落共同体の不在』こそが,強権に対する無意識の抵抗手段」(同書,258頁)として軍政の抑圧と向き合ったとも指摘されている。この点は自分も目から鱗が落ちたようであった。開発経済学分野などでは村の相互扶助や共有地,グループによる相互監視(peer monitoring)の議論など,強固な「村落共同体」を前提にした議論が多い。自分も無意識のうちにこうした村落共同体像を前提に論を進めることもしばしばであった。ベトナムにも北部のように村の境界が明確な村落共同体もあれば,南部の村のようにそうしたものがない緩やかなつながりをもつ集落があることを理解していたにもかかわらず,である。N君がおかれている状況がなぜ発生したのか理解はもとより,ベトナム農村に対する自分の向き合い方にも強い反省の念を覚えた。

N君を想う

 結局のところ,今回の問題に直面するまで私はミャンマーについて何も理解していなかった。ミャンマーは人口の68.9%が農村に居住する国である(2020年,World Development Indicatorsによる)。だからこそ上記の農村の理解は国軍への反発と民主化要求がこれほど大きなうねりとなって表面化したことの重みを教えてくれる。

 世界ではロシアによるウクライナ侵攻が深刻な問題となり,世界も固唾を飲んでその状況の推移を見守っている。ミャンマー政変後の民主派への弾圧を含む状況推移の情報はクーデターが勃発した当初,盛んに報道されていた。しかし現在は,そうしたミャンマーに対する報道は少なくなっている。ミャンマー問題への人々の関心がなくなる心配とN君への想いが今回のコラム執筆の動機となった。民主化を望み,ミャンマー農村の未来を真剣に考えていたN君と最後に連絡がとれたときは,軍の拘束から逃れるため各地を転々としているとのことであった。N君の無事を祈り,そして大学院で指導する日が一日も早く到来することを強く祈念したい。

(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article2571.html)

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