世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
「張り子の虎」のシンガポールのイノベーション政策:独裁政権が粉飾して呼び込む海外からの投資
(慶應義塾大学SFC研究所 上級所員)
2021.05.31
21世紀の初め頃から,シンガポールは自らをR&Dに秀でた「イノベーション大国」として売り込み,海外から投資や人材を呼び込んでいる。しかし,グローバル・イノベーションについての経営学の常識では,企業が特にR&Dやイノベーションが目的の海外投資を成功するには,受け入れ国に魅力的な需要や市場(市場要因),もしくは重要な技術(技術要因)があることが必要条件である。
問題は,シンガポールはいずれの要因も備えていないため,この政策はうまくいっておらず,ここ数年,政府は政策の転換を図っている。にもかかわらず,シンガポール政府がまるでこの政策が成功しているように発表し,多くのメディアや本などもそのように書いているため,大きな誤解を生んでいる。
市場要因については,シンガポールの人口は,国籍保持者はわずか350万人で(横浜市の人口(375万人)とほぼ同じ),外国人居住者(永住権保持者50万人と外国人労働者170万人)を含めても,合計570万ほどと小さい。シンガポールの近隣の東南アジア諸国の市場は大きいが,これら諸国は人口動態,経済水準,都市化,産業構造,商慣行,行政制度,文化,消費者の嗜好など様々な面で大きく異なるため,シンガポールでのR&Dやイノベーションは,こうした国々の市場参入につながるものではない。
また,技術要因については,シンガポールは小さく人材に限りがあるうえ,国全体の総研究費は,日本や中国の40分の1,韓国の10分の1で,比較にならないほど小さい。また,シンガポールはイノベーションの投資効率が極めて悪く,世界知的所有権機関(WIPO)の“Global Innovation Index 2019”(GII)で,インプットで世界1位だが,アウトプットは15位でしかなかった。過去も,2009−2010年はそれぞれ3位と12位,2015年は1位と20位で,効率が大変悪い。
もともとシンガポールに先端の研究を行える素地はなく,開発独裁の典型で効率性重視が強いため,イノベーションに必要な試行錯誤や自由な考え方を許容する国ではない。このため,シンガポール政府の戦略は,長い時間やお金をかけて基礎研究を育てるより,先進国の基礎研究の成果を利用して,手っ取り早く利益を得ることだった。
しかし,結果的に,シンガポールの政策は成功せず,期待していた技術や利益や雇用を生み出さなかった。R&Dのアウトプット指標は2010年前後頃を境に悪化しており,例えば,シンガポール特許庁のシンガポール居住者(シンガポールに所在する多国企業等の法人も含む)の登録特許は2011年の484件を境に減少に転じている。
また,シンガポールの知的財産使用料のうち,R&Dに基づくライセンス使用料については,輸出額が2015年をピークに減少しているが,通常R&Dから特許取得を経てライセンス使用料を得るまで約4~5年ほどはかかるため,R&Dの成果のピークは2010年前後とみられる。
ハイテクの外資系企業の撤退も起こっており,シンガポールへの対内直接投資の残高のうち,例えば,シンガポール政府が特に力を入れていた製薬及びバイオ産業の投資残高は2007年と2011年をピークに減少している。また,バイオテクのPCT特許数や製薬産業の輸出額も2012年をピークに減少している。大手の製薬会社の研究所も相次いで撤退しており,例えば,2010年に米イーライリリー,2013年に米ファイザー,2014年に英グラクソ・スミスクライン,2017年にスイスのノバルティスが,シンガポールのR&D施設を閉鎖した。
こうした状況から,2010年代半ばになると,シンガポール政府も政策を方向転換せざるを得なくなり,R&D予算も削減したため,総研究費や研究開発者数は頭打ちや減少に転じた。そして,期待した成果が出ないR&D政策の代わりに,2014年に「スマート国家」(デジタル技術とデータを活用して国全体をスマート化する構想),2016年に「スマート金融センター」(FinTechなどを振興して金融ハブとして飛躍する構想)の政策を掲げるようになった。
しかし,これらの政策も順調ではない。例えば,シンガポールの通貨金融庁は金融業の大手外資系企業のイノベーション・ラボとスタートアップの協業促進のため,2015年から2020年まで総額2億2,500万シンガポールドル(約170億円)の支援を開始し,2016年英国をまねて「規制の砂場」の実験を始めた。しかし,2019年半ばまでにサービスを展開しているスタートアップは保険テックのポリシーパル(Policy Pal)の1社に留まる。
以上のように,シンガポールは21世紀に入り,時流に乗ったイノベーション政策を打ち出してきたが,実際の中身は外国からの借り物で飾った「張り子の虎」で,成功していない。特に,シンガポールの問題は,政府が海外から人や投資を呼び込むために不正な宣伝や情報操作を行っているため,騙されて投資する外国企業が多く,被害も大きいことである。
ある程度はどの政府も外資を呼び込むため事実を誇張しているであろうが,特にシンガポールの場合は独裁政権の言論統制や情報操作が巧妙で,政府が自ら嘘のPRをするだけではなく,よく欧米の著名人などにも高額の報酬を払って,さもシンガポールが成功しているように世界へ向けて言わせている。また,政府や独裁政党のPAPの取り巻きは,シンガポールの大学で教える学者などに無理に宣伝に協力させ,虚偽の事実を学術論文等に書かせるという,学術上の不正も行っている。
学術上の不正の例として,R&D政策について言うと,Hang Chang Chieh 教授が主編者の「The Singapore Research Story」(2016)は,PAPの政策の成功をアピールするため,事実を歪めて粉飾し,学術書として出している典型である。Hang教授は政府やPAPと緊密な関係で,2000年代のR&D政策を国の研究機関のA*STARの責任者として実行に移した人で,関係者の間でよく知られた人物である。彼の部下への弾圧は殊に有名で,シンガポール国立大学のタン学長(Tan Eng Chye)と共謀して,同大学の教員などに虚偽を論文に書くよう強要し,それを拒否した正義感のある研究者に対し,給与や研究費を減額したり,辞任させたりしたことが大きな問題となった。
シンガポールの与党PAPは2020年7月の総選挙で大きく得票率を下げたが,今後,真に国民や国際社会の信任を得,イノベーションを栄えさせるためには,PAPは独裁的な情報操作や弾圧を改め,批判的な意見にも耳を傾ける必要があろう。また,シンガポール進出を考える企業は,シンガポール政府が粉飾した宣伝の「影」の部分について慎重に調べ,事前に多方面から正確な情報を集めることが重要であろう。
*本稿テーマの詳細な論考は,「「張り子の虎」のシンガポールのイノベーション政策:独裁政権が粉飾して呼び込む海外からの投資」(世界経済評論インパクトプラス No.20)を参照ください。
[参考文献・資料]
- 新井聖子(2020年6月8日)「コロナで垣間見えるシンガポールの外国人搾取」(世界経済評論IMPACT)
- 岩崎育夫(2013)『物語 シンガポールの歴史』(中央公論新社)
- 盛田茂(2015)『シンガポールの光と影』(インターブックス)
- AnnaLee Saxenian(1994)「Regional Advantage: Culture and Competition in Silicon Valley and Route 128」(日本語訳「現代の二都物語」(1995))(Harvard University Press)
- Michael E. Porter (1998) 「On Competition」(Harvard Business School Press)
- Hang Chang Chieh等編者(2016)「The Singapore Research Story」(World Scientific Publishing)
- Håkanson, L., & Nobel, R. (1993) Determinants of foreign R&D in Swedish multinationals. Research Policy, 22(5-6): 397-411.
- Pearce, R., & Papanastassiou, M. (1996) R&D networks and innovation: decentralized product development in multinational enterprises. R&D management, 26(4): 315-333.
- 経済協力開発機構(OECD)Main Science and Technology Indicators (MSTI)
- シンガポール統計局 (https://www.singstat.gov.sg/)
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