世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
シンガポールの次期首相候補が辞退した本当の理由
(慶應義塾大学SFC研究所 上級所員)
2021.05.24
ヘン・スイキャットの首相候補辞退表明
去る2021年4月8日,シンガポールの次期首相になることが確実視されていた,ヘン・スイキャット副首相が自ら,「第4世代チーム(fourth-generation (4G) leaders)」のトップを降りて,次期首相の座を辞退することを発表した。これに伴い,4月23日に内閣改造が行われ,副首相兼財務相だったヘンは引き続き副首相として残るものの,財務相については財務副大臣だったローレンス・ウォンが昇格した。
「第4世代チーム」とは,現在首相であるリー・シェンロン第3代首相の退任後に,第4代首相を中心として政権を牽引する予定の若手政治家たちで,このチームが2018年にヘンをリーダーにすることを,全員一致で選んだ。これにより,ヘンが次期首相になることが事実上決まり,同氏は同年11月に与党・人民行動党(PAP)で序列2位の書記長第1補佐に就き,2019年5月には副首相兼財務相に任命された。
リー首相は,後述のように,実は昨年7月から首相候補の交代を考えていたが,今回のヘンの辞意表明後,これを公式に認め,次の首相候補は,「第4世代チーム」が仲間の中から今後2~4年かけて2025年の次期総選挙までに選ぶことになると述べた。リー首相は,2~4年も先になる理由は,「第4世代チーム」がコンセンサスで首相候補を選ぶ必要があるためで,それには時間がかかるとしている。しかし,「第4世代チーム」は2018年にヘンをリーダーに選んだのと同じメンバーなので,すでに互いをよく知っているため,今後2~4年もかかるとは考えにくく,実際は,リー首相がヘンを降ろして,長期間首相を続けることを正当化するためだろう。
ヘンの辞退の本当の理由
ところで,今回のヘンの決断は突然のようだが,実はそうではない。ヘンは,記者会見で,辞意の理由は,コロナ後の収拾のためにリー首相の継続が長引くので,政権交代が遅れるため,自分の年齢からして長期政権を維持することが難しいからだと述べた。
しかし,本当の理由は,昨年(2020年)7月10日の総選挙のPAPの事実上の敗北で,これが実質的に国民のヘンに対する不信任投票とみられるためだろう。もしヘンが総選挙後すぐに辞意を表明したら,PAPの事実上の敗北を認めたことになり,絶対与党であるべきPAPの権威を傷つけるので,9か月ほど経った今,辞意を明らかにしたと考えられる。
シンガポールは,1965年の建国以来,PAPの圧倒的な独裁のもと発展してきたが,昨年7月の議会総選挙で,PAPは,得票率を前回の2015年の69.9%から61.2%に大幅に下げ,過去最低の2011年の60.1%とほぼ同じだった。最終的な議席数は,PAPに大変有利な制度のため,PAPが93の全議席中9割の83を獲得したものの,野党はこれまで最多の10議席を獲得した。また,PAPは,ウン・チーメン首相府相,ラム・ピンミン上級国務相(保健・運輸担当),アムリン・アミン上級政務次官(内務・保健担当)らの大物が落選した。
実は,この総選挙は2021年4月までに行われる予定だったが,急遽2020年7月に9か月も前倒しで実施された。リー首相がこの大幅な前倒しに踏み切った理由は,一般に危機の時は与党に有利なことや,コロナで通常の選挙運動ができないことが野党に不利なことなどが言われている。
なお,シンガポールの選挙制度は,PAPに極めて有利で,例えば,大半の議員を選出する「集団選挙区」では各党は少なくとも1名は中華系以外の候補者を入れて定数分(3~6)の立候補者を用意する義務があり,また,最大得票政党がその選挙区の議席を全て独占できるなど,野党にとって大変厳しい(国籍保持者のうち,中華系は約76.0%,マレー系は15%,インド系は約7.5%のため,中華系以外の候補者を入れるのは難しい)。
こうした状況にもかかわらず,PAPが得票率を大幅に下げたことは,PAPの事実上の敗北だった。特に,今回首相候補を辞任したヘンの選挙区では,PAPが前回の2015年の60.73%から53.41%に得票率を下げ,危うく野党の労働党(Workers’ Party of Singapore)が勝利して,ヘンが落選するところだった。
このため,国民がヘンに不信任を下したと騒がれ,リー首相としては首相候補の再考が必要だと強く認識したことは間違いない。ヘンもこの時辞退したほうが良いと思っただろう(ヘンは筆者のハーバード大学留学時代の友人だが,周りに気配りする人で,国民に嫌がられてまで首相になりたいと思う人ではない)。ヘンが降りることは必然として,問題は,PAPの権威を傷つけないため,発表の時期をいつにするかだったが,それを今回行ったとみるべきだろう。
国民が歓迎できる他の候補は不在
今後,第4代首相の候補者選びは,どう転んでも,国民が信任を簡単に与えるようにはならないだろう。と言うのも,アンケートによれば,ヘンの人気が低い理由は,カリスマ性の無さと,国民が新しいリーダーに政治改革も含めて大きな変革を望んでいるためである。実は,これは,現在「第4世代チーム」の中で,次期首相の有望な候補と目されている3人の閣僚(新内閣のチャン・チュンシン教育相,ローレンス・ウオン財務相,オン・イエクン厚生相)にもあてはまる。
彼らは3人とも,ヘンと同様,PAPが選んだ後継者なので,従来のPAP路線からはずれた大きな変革を期待できず,また,政府や軍で公務員として長い経験を積んだ後,2011年以降PAPの推薦で当選して政界入りしたため,民衆を引きつけるようなカリスマ性はない。
以上のようなことから,今の「第4世代チーム」からの首相候補を選ぶ方法のままでは,国民が期待するようなカリスマ性を持ち,大きな変革を実行できるような候補が出てくるとは考えられない。となると,これから2~4年かけても,国民が納得するような首相が誕生することは難しいだろう。
リー首相と与党PAPは今後も利権を守るため民主化を阻む
ところで,台湾では第2次世界大戦後約30年間,蔣介石と蔣経国の親子2代の総統の独裁政権が続いたが,その後,1988年から李登輝総統によって民主化が推し進められた。一方,シンガポールの場合,独立前のマレーシア自治州時代の1959年から,リー・クアンユーとリー現首相の親子2代の首相らが60年以上独裁支配してきたが,果たして,リー首相の退任後,民主化の方向に進むのだろうか(1959年~1990年はリー・クアンユーが初代首相,1990年~2004年はゴー・チョクトンが第2代首相,2004年以降はリー・シェンロンが第3代首相だが,ゴー・チョクトンが第2代首相だった1990年~2004年の間,リー・クアンユーは上級相として君臨していた)?
答えは,まず「NO」だろう。何故なら,台湾は,1988年の蔣経国の突然の死後,副総統の李登輝が昇格して総統になったため,蔣経国やその一派に遠慮せず,民主化を推進できた。また,李登輝は自分の親族や縁故者に利権を与えなかった。一方,シンガポールの場合,リー現首相は退任後も,これまでの例に倣い,上級相や顧問相として権力をふるうだろう。
リー現首相は「自分の息子を後継者にしない」と公言しているが,リー王朝とまで言われるほど,シンガポールではリー一族とPAP幹部らの利権が深く浸透していることは公然の事実である(例えば,リー現首相の妻ホー・チンは世界最大級の国有投資会社テマセクホールディングスのCEO,弟のリー・シェンヤンは元国営企業のシンガポールテレコムのCEOやシンガポール民間航空庁の顧問などを歴任)。汚職防止策と称して閣僚や高級官僚の給料は世界一高く,リー首相の年棒は1億7000万円を超え,日本の首相や米国の大統領(各々約4000万円)の4~5倍の上,リー首相は複数の政府機関の要職を兼ねて給料を得ているため,資産は少なくとも50~60億円と言われている。
リー現首相が首相退任後も必死で利権を守ろうとすることは間違いなく,もし守らなければ一族や仲間からに逮捕者が出てもおかしくない状況である。こうした事情からして,台湾で起こったような民主化が,シンガポールに訪れるのは,(少なくともリー現首相の生存中は)まず不可能だろう。
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新井聖子
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