世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.2165
世界経済評論IMPACT No.2165

メルケル時代のたそがれ

田中素香

(東北大学 名誉教授・国際貿易投資研究所 客員研究員)

2021.05.24

 16年の長きにわたってドイツ政府を率いてきたメルケル首相の任期は本年9月に終わる。2005年から今日までメルケル首相はEUにも多大の影響を及ぼしたのだが,EU統合を大きく前進させた功績はなく,むしろ,マイナス効果の方が目立つ。

 メルケル首相の前のドイツの長期政権はコール首相の16年がある。その前のシュミット首相も74年から9年間。両人ともEU統合に熱い思いを抱いて,その思いを果断に実行に移していった。

 シュミット氏はEMS(欧州通貨制度)をドイツ連銀など周囲の強い反対を押し切って実現させ,僚友ジスカールデスタン大統領と共にユーロへの道を切り開いた。「通貨統合の父」の尊称をEUから受けている。コール元首相はドイツ統一を指導し,EUについてもドイツ世論の60%近くがマルク放棄・ユーロ採択に反対したのを「ユーロは戦争か平和かの問題だ」と押し切り,ミッテラン大統領と共にユーロを実現させた。コール氏は初の「EU葬」で見送られた。

 そういう功績をメルケル首相はもたない。それどころか,ユーロ危機に際して緊縮財政にこだわり,南欧諸国の不況を深刻化・長期化させ,ギリシャやイタリアに反EU・反ドイツの政治勢力を根付かせてしまった。このように,ドイツの流儀を他の加盟国に押しつけたマイナス効果は今も生々しい。もっとも,昨年7月のEU首脳会議では,7500億ユーロの「復興基金」をマクロン大統領と共に実現させ,少し名誉を挽回した。

 メルケル首相になぜこうもEU統合への貢献が小さいのか,当のドイツ人にも謎めいて見えるらしい。最近読んで納得したのは次の説であった。ドイツ人といっても西ドイツ人と東ドイツ人では違っている。西ドイツ人はドイツの壁を軽々と乗り越えてヨーロッパ(EU)人として活躍できる。だが,90年にドイツ人になった東ドイツ人はそうはいかない。メルケル首相は「よきドイツ人」を自らの規範として固守したのであり,「良きヨーロッパ人」へ飛躍することはできなかったのだ。

 では,その「よきドイツ人」とは何なのか。そこまでその説明は言及していない。筆者の感想をいわせてもらうと,ドイツ財界(大企業中心のBDI:ドイツ産業連盟)を政治面で代弁するのがメルケル首相の「よきドイツ人」ということだったのではないか。

 メルケル首相は13回も北京詣でを繰り返し,多数のドイツ財界人が随伴した事例も少なくない。ドイツは昨年後半EU理事会の議長国だったが,メルケル首相はその立場を利用して12月30日中国との首脳会議でEU中国投資協定(CAI)の大筋合意をもたらした。中国に巨大投資を行い,EVやバッテリー生産でも中国依存のドイツ自動車業界の活動範囲を広げたいと思ったのであろう。

 しかし,バイデン政権が中国に対する欧米協調行動を提案していた矢先の大筋合意だったので,アングロサクソン系のジャーナリズムはEUとメルケル首相に厳しい批判の矢を放った。バイデン政権も不快感をもったに違いない。ドイツ政府が進めてすでに9割方完成したロシアからの天然ガスパイプライン「ノルトストリーム2」の工事継続に,トランプ政権が賦課した制裁をそのまま受け継いだ(注)。

 CAI合意文書を読むと中国の譲歩は小さく実効性は乏しいと,ブリュッセルのシンクタンクの中国専門家はいう。それに,CAI大筋合意の直前に中国は外資の行動を阻止できる法律を急遽議会通過させてもいる。合意した紛争処理手続きを中国が逆用して,EUの投資規制にクレームをつければ状況はかえって悪くなると主張する人もいる。

 今年3月,ウイグル族への人権侵害に対する米バイデン政権の制裁に続いて,EUも,1989年の天安門事件以来の制裁を中国に課した(関係4官僚にEU入国禁止)。中国は対抗制裁を返し,その中に,EUの欧州議会で中国問題を担当するドイツ人議員,ドイツのシンクタンクMericsの研究員が含まれていた。ドイツ人が2人も標的にされたのに,4月のドイツ中国首脳会議でメルケル首相は具体的な抗議は行わず,今日なおCAIの早期批准を説得している。一部の与党議員からも批判が出ている。

 中国政府はCAIの早期批准をEUに訴えているが,欧州議会は中国批判を強めている。CAIの批准には,EU理事会(加盟国)と並んで欧州議会の承認が必要だ。CAIの批准プロセスは一時的にストップし,先行きは不透明になった。

 EUの中国への対応は,2015年頃まで歓迎一色,「パートナー」の時代だった。16年から様子が変わり始め,中国は「競争相手」とされた。19年には価値観を含めて「体制的ライバル」という厳しい位置づけに変わった。EUは今なおこの3本立てを使い分けているが,「体制的ライバル」への動きがEU加盟国の世論の中で等し並みに,またハンガリーを例外として中・東欧諸国の政府などでも強まっている。「パートナー」にこだわるメルケル首相にEUが追随する可能性は縮小しているように見える。

 国内でもメルケル首相の与党への支持率は低下し,左派のグリーン(環境保護政党)に追い上げられている。9月の連邦議会選挙が見ものだ。

 BDIを政治面で代弁する政策路線を情勢が追い越し始めている。メルケル時代のたそがれである。

[注]
  •  バイデン政権は3月18日「ノルドストリーム2」工事継続への制裁を解除すると発表した。ドイツ政府との和解のほかに,ロシアと中国の蜜月化を阻止する狙いも含まれている。
(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article2165.html)

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