世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.1874
世界経済評論IMPACT No.1874

ワクチンの開発と分配のポリティカルエコノミー

藤村 学

(青山学院大学経済学部 教授)

2020.09.07

 新型コロナウィルスの感染がグローバルレベルで収束していくシナリオは,安全で信頼できるワクチンの開発・生産のスピードと,その分配がどのような構造になっていくのかに依存する。そしてワクチンの分配構造は,製薬会社の利潤動機,各国政府の財政力,さらには米中新冷戦を背景とする安全保障の観点を含んだポリティカルエコノミーにかかってくるだろう。

 WHOによると,8月中旬時点で世界において160種類以上のワクチン開発が進行中で,そのうち31種類が治験段階,7種類が最終治験段階に入っている。英エコノミスト誌(8月8日付)によれば,各国政府による投資規模は合計で100億ドルを超え,製薬会社から合計40億回分のワクチン供給を受ける契約を結んでいるとされる。製薬会社に開発・生産を急いでもらうため,「副反応」による健康被害の賠償を肩代わりする政府も多いだろう。一般的に最終治験段階のワクチンの2割は不成功に終わるという。しかも,米食品医薬品局(FDA)やWHOは開発のスピードを優先し,有効性の判断基準を抗体獲得率8割から5割に緩和した。信頼に足るワクチンの供給量は2021年末までにせいぜい20億回分であろうと予想する向きもあるようだ。

 この状況下では,経済再開を急ぎたい各国によるワクチン争奪戦がすでに起こっていると考えてよいだろう。一部報道ではワクチン価格は1回分20~50ドル程度になるといわれる。米国や英国が人口の4~5倍,日本は2倍の確保を目指している一方,新興国・途上国全体での確保量は人口の3分の1に満たないという予想もある。中国の主要製薬企業3社(シノバック,シノファーム,カンシノ)は,政府と軍の支援を受け,中国国内で技術蓄積のある不活性化ワクチンの最終治験を南米や中東で進めている。低所得国の間では中国のワクチン外交および「ヘルス一帯一路」攻勢が幅を利かせることになりそうだ。

 パンデミックを収束させることは現状で最も差し迫った国際公共財であり,競争よりも協調が求められる。米中新冷戦という現実の下でも,各国がワクチン生産・調達の余力に応じて「担税」し,感染拡大リスクの大きな国・地域に優先してワクチンを分配することが最適戦略となるはずだ。

 そうした論理に沿う試みとして,WHO,ユニセフ,世界銀行,ゲイツ財団および市民団体などが2000年に創設したGlobal Alliance for Vaccines and Immunization(GAVI)というイニシャティブの下に,新型コロナ対策として「COVAXファシリティー」という枠組みが立ち上げられた。これは,中高所得国75ヵ国が公的予算からGAVIへ払い込む寄付金によって,2021年末までに,90の低所得国を含む参加165ヵ国において医療従事者と最脆弱層に優先してワクチンを分配しようとするもの(WHOホームページ情報)で,日本政府も参加を検討している。この枠組みの先例となったのが,1996年に創設された国際エイズワクチン・イニシャティブ(IAVI)というもので,HIVワクチンの開発に関して製薬会社の参入インセンティブを与えるために,25ヵ国各国政府,民間企業,財団などが資金をプールしてHIVワクチン候補の研究開発を先導してきた。

 新型コロナワクチンにおいてこの枠組みが現実にどれほど機能するかという点で,米英中など主要生産国の間での協調度合いが最重要となりそうだ。ウィルスには国境がないのだから,どの国もパンデミックの安全保障面では利害を一致させて協力するインセンティブがあるはずだ。かつて米ソ冷戦下では,天然痘撲滅においてはWHOを媒介として米ソが協力したという歴史がある。

 残念ながら,今回のパンデミックにおいては,発生源の中国による情報統制・閉鎖的対応もまずいが,それ以上に,公衆衛生分野で世界をリードしてきた米国がその役割を発揮できないどころか,自国内で感染拡大のコントロールを失っていることが大きい。オバマ政権下で創設されたPREDICTという,世界中の(とくに中国由来の)新興ウィルスをモニターするプログラムを,2019年にトランプ政権が予算カットしたことが,米国の初動の遅れにつながったとされる。トランプ大統領の科学を無視する姿勢が米国の苦境をエスカレートさせていることは,世界中に報道されている通りである。

 米大統領選たけなわの現在,米国から建設的なイニシャティブが出てくるとは考えにくい。ワクチン争奪戦が無秩序に展開すれば,取り残されるのは,経済活動制限の余裕が小さく医療基盤も弱い低所得諸国である。先進諸国は,自らの第1波が収束したとしても,グローバルレベルで収束しない限り,折り返しの第2波に巻き込まれ,新たな人命・経済コストを被るということに留意する必要がある。各国の官民は,米中協調の機が熟するのを待ちつつも,上述のような枠組みを活性化させる必要がある。オリンピック実施の利害をもつ日本はリーダーシップを発揮する機会でもあろう。

(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article1874.html)

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