世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.1533

日ソ・シベリア開発協力史上の成果と政経分離の限界:チュメニ石油開発で遭遇した政治の壁

金原主幸

(国際貿易投資研究所 客員研究員)

2019.11.11

初期プロジェクトの形成と基本的パターンの確立

 ソ連からの熱心な誘いを受け,財界首脳が率先して動いたことが功を奏し,1960年代末には最初の三つの日ソ・プロジェクトが実現した。それが,第一次極東森林資源開発プロジェクト(以下,KSプロジェクト),ウランゲル港建設協力プロジェクトならびにチップ・パルプ材開発協力プロジェクトである。このうち,第1号案件となったKSプロジェクトは,その後に出現する大型案件形成に向け基本的なパターンを確立し,日ソ・プロジェクトの雛形となった。ここで,そのしくみの大枠を簡単に説明しておきたい。1968年にKSプロジェクトの基本契約が日ソ経済委員会とソ連側との間で調印された。これに基づき,日本側はソ連極東地域の森林資源開発に必要な建設機械・機器等を1億3,300万ドル相当の対ソ信用供与により供給し,それと引き替えにソ連側は69年から73年にかけ合計750万立法メートルの木材を対日供給する,これが日ソ間の合意内容の骨子であった。なお,両国政府間では契約の実施を促す旨の公文が交換されている。また,日本企業による実際の商取引については,同プロジェクトに基づく対ソ木材輸入は一元的に行われたが,対ソ輸出については基本契約に計上されている機械・設備,消費財の引き合いさえ入手すれば,原則として同プロジェクト関係企業以外にも開放され自由であった。この点についても,その後の大型プロジェクトの雛形となっている。

プロジェクトの大型化と政府の関与

 1970年代に入ると、日ソ・シベリア開発協力は一層活発な展開をみせ,全盛期を迎えた。二つの局面において新たな段階に突入した。

一つ目は,プロジェクトの大型化と質的変化である。すなわち,膨大な開発コストを必要とするエネルギー資源関連の分野が集中的に交渉対象となったのである。この時期に実を結んだ日ソ・プロジェクトは,南ヤクート石炭開発プロジェクト,第二次KS(極東森林資源開発)プロジェクト,ヤクーチャ天然ガス・プロジェクト,サハリン大陸棚石油ガス・プロジェクトの4件である。紙幅の都合で各プロジェクト内容の説明は省略するが,いずれも74年か75年にソ連との間に基本契約が調印され,巨額のバンク・ローンの供与が約された。

 二つ目は,政府の関与の深まりである。初期プロジェクト形成期においては,日本側の交渉はもっぱら日ソ経済委員会の管轄下にあり,政府は直接係わることはあまりなかったが,プロジェクトの大型化に伴い政府が以前より前面に出ることになった。それが具体的な形として示されたのが,既述のバンク・ローンの供与であった。1973年に訪ソした田中首相はブレジネフ書記長との首脳会談のなかで,「日ソ・プロジェクトについて,日本側の窓口を経団連(日ソ経済委員会)とする」ことと,「ソ連側当局と開発条件について具体的な内容が固まれば,日本政府が資金面でバックアップする」の2点をソ連側に伝えたと言われている。この発言は、資源獲得外交に積極的だった田中首相の強い政治リーダーシップの現れであり,シベリア開発協力を政府ベースに引き上げることへの明確なコミットメントと受け止められたのである。

チュメニ石油開発プロジェクト交渉の頓挫と政経分離の限界

 大規模なエネルギー開発案件の出現は経済界に「シベリア・ブーム」を巻き起こしたが,同時にこれまでにはなかった課題や障害に直面することとなった。国際的には,米国ならびに中国との関係が問題となった。日ソ経済委員会では,コスト面のみならず政治的な考慮からエネルギー開発案件について第三のパートナーとして米国の企業に参加を求めた。この結果,ヤクーチャ天然ガス・プロジェクトの探鉱段階の基本契約には米国企業の参加を得ることができた。他方,上述の4大プロジェクトと並行して数年にわたる密度の濃い交渉を行いながら,ついに日の目を見なかったのが,超大型案件として国内外で大きな反響を呼んだチュメニ石油開発プロジェクトだった。同プロジェクトの交渉経緯については詳細が明らかになっておらず,交渉の日本側キーパーソン(日ソ経済委員会・石油小委員会専門委員)がシベリア上空飛行中の機内で怪死するなど,解明されぬままの謎も多い。ただ,中国が日本の参加に強い懸念を示したことは歴史上の事実として確認されており,米国の企業が日ソ経済委員会からの強い要請にもかかわらず参加を見送った背景には,中国からの働きかけがあったとも言われている。

 実現したものを含めてソ連側から提案のあったプロジェクト構想は合計20件以上に及ぶと言われているが,そのなかで経済外の要因から実現しなかったものは,おそらくチュメニ石油開発プロジェクトのみだった。日ソ経済委員会が,政府の全面的支援も米国の参加も得られなかったという事実は,当時の国際情勢のなかで日本のシベリア開発への参加には,なんらかの許容範囲の上限が存在したことを示唆している。これは筆者の仮説にすぎないが,その上限とは単に経済的な意味だけではなく,政治・外交的さらには心理的な意味である。実現した既述の7件の日ソ・プロジェクトはその範囲内だったが,チュメニ石油開発プロジェクトは上限を越えるものだったのかもしれない。そうした上限の設定に係わる経済外的要因としては,ソ連の軍事的脅威,北方領土問題で増幅された対ソ(ロシア)不信の歴史,対ソ資源エネルギー依存度拡大への警戒,同盟国としての米国への配慮と忠誠,さらには1970年代初頭以来の日中関係の改善等が含まれるだろう。ここで指摘しておきたいのは,ソ連からロシアへ体制転換した今日においても,これらの要因の多くが基本的には消滅せずに継続しているのではないかということである。

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