世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
日本経済の‘謎’
(熊本学園大学 名誉教授)
2017.06.26
企業収益,失業率,経常収支,主要なマクロ指標はかつてなく良好で,物価も名目賃金も上昇することもなく,下落することもなく安定している。デフレとは言うまでもなく物価の持続的下落であり,インフレは物価の持続的上昇である。デフレは企業収益の低下,雇用の減少,失業率の上昇,名目賃金の下落,企業倒産の続出,株価の下落が主要な現象である。現在の日本経済はインフレでないことはもちろん,デフレでもまったくない。
日本経済は安定低成長であり,かつてなく望ましい状況にある。この事実を認めず,十年一日の如く,「デフレからの脱却」などという空念仏を唱えることは「無いものを在る」という,トランプ流の「Post-truth」(客観的な事実が重視されず,感情的な訴えが政治的に影響を与える典型的なポピュリズム)以外の何物でもない。
しかし,企業収益が好調で,失業率も低く,経常収支は大幅な黒字の下で「なぜ物価,賃金,株価は安定した低水準を持続するのか?」は,確かに旧来の経済思考からすれば日本経済のエノグマ‘謎’である。この‘謎’を解明することは現代日本経済論の重要な課題であろう。
自然科学的実験は何度繰り返しても,同じ結果がでなければ真実ではない。社会的現象は単純に同じことを繰り返さない。むしろ中長期的にはダイナミックに変動するのが常である。柔軟な頭脳,広い視野で現実の変化を直視しなければならない。技術革新,グローバリゼーション,日本的経営・文化という広く認知されている概念でこの課題を分析し,解釈を加えよう。次の事実(Truth)が刮目されなければならない。
第一に,IT・AI・IoTといった先端的技術革新が生産・流通現場でロボットを多用し,情報・流通コストを破壊的に引き下げ,グローバルなサプライチェーンを通して物価の下方圧力をもたらしている。「異次元金融緩和政策」などはこの下方圧力に対しては「蟷螂の斧」である。日本経済にもコスト削減効果が経済全体に及び,物価を持続的に低位安定させ,企業に高収益をもたらしている。
第二に,日本経済におけるグローバリゼーションの特徴を見なければならない。「経常収支」の大幅黒字である。それは海外投資によってもたらされる第一次所得(配当,利子)の急増である。海外投資はかつては証券投資が主であったが,現在は直接投資が主である。直接投資はかつては産業の空洞化(失業の増大)を招くと批判された。なぜ産業の空洞化議論は空洞化したか? 海外直接投資にともない国内の本社機能において海外部門の管理,支援業務も拡大している。研究開発は国内に留まっている。また,観光業をはじめ日本経済のサービス化が急伸している。いずれも雇用の確保に貢献している。日本の資本移動は非対称的である。対日直接投資には,その是非はともかく日本的経営・文化の障壁があると見るべきであろう。日本の海外直接投資は途上国にむけて今後ますます増大するだろう。死活的に重要な海外戦略である。
第三に,企業収益が高いのになぜ賃金が上昇しないのか? G5 ,G7先進諸国と比較しても日本の低失業率は際立っている。労働市場,労使関係などの観点から様々な分析がなされているが,基本的には物価が安定,もしくは下落していることが賃金上昇圧力を抑制している。賃金はかつて下方硬直性が議論された。現在は上方硬直性が問題だとされている。賃金だけでなく,経営者報酬,株式配当にも上方硬直性がある。乏しきを憂えず,富貴を求めず,日本的経営・文化の誇るべき長所である。
第四に,なぜ日本の株価は低位安定か? 世界の株価はリーマンショック前のピークを上回っている。日本の株価は依然としてピーク時の2分の1程度である。世界の株式時価総額の上位5社はアップル,アルファベット(グーグル),マイクロソフト,アマゾン,フェイスブックの米国のIT企業である。日本的経営・文化の土壌からはシリコンバレーの天才的経営者も,破壊的イノベーションも生まれない。日本は地政学リスク,政治リスク,社会的リスクは欧米先進国と比すべくもなく小さい。利益が高いのに株価が上昇しないことは日本経済の現状に整合的である。将来性に賭けるIT株には大きな変動は避けられない。ヤフーが撤退に追い込まれたように。現在の日本経済はノーマルであり,これが新しい歴史的発展段階にある「ニュー ノーマル」(新しい常態)である。物価の上昇と成長の再現を望むことは「成長パラノイア」である。
イギリス経済史の権威,川北稔氏は「成長パラノイア」,「成長がなければ衰退」という発想,思考に疑問を呈されている。「われわれにとって問題なのは,成長パラノイアということであって,俗に衰退と言われているものはそれほど悲惨なことではない,というのが長年歴史研究に携わってきた結論のひとつです」(『イギリス近代史講義』)。
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