世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.721

2つのパワーシフトと大西洋経済統合

蓮見 雄

(立正大学経済学部 教授)

2016.09.19

2つのパワーシフト

 IMFによれば,1991年の世界のGDP(購買力平価)に占める割合は,先進国(香港,台湾等を含む)63.3%,発展途上国・新興国36.7%であった。その後,先進国の割合は低下し始め,2007年以降,その比率は逆転,2015年には42.4%,57.6%になった。この変化を端的に示すのが中国の台頭である。1991年,世界のGDPの21.6%を占める米国に対して中国は4.4%だったが,2014年に追いつき,翌年には米国15.8%,中国17.1%と逆転した。この限りで,先進国から新興国へ,米国から中国へと,世界経済の重心が移るグローバル・パワーシフトが生じている。

 しかし,これは,米国に代わって中国が国際公共財を提供する力と意思をもつ覇権国になるパワー・トランジッションではなく,むしろ多極化の進展であろう。なぜなら,この変化は,国家から非国家主体,とりわけグローバル・ビジネスを展開する企業へのもう一つのパワーシフトを伴い,企業の選択,言い換えれば「市場の声」が国家の盛衰に影響を与えるからである。諸国家は,「市場との対話」を通じて収益機会の拡大を求められる競争にさらされ,各国あるいは国家グループの様々なルールや制度が対立・協調を繰り返し,多極化を伴いながらも,それらの間の競争を通じて徐々に新たな国際公共財が形成されていく,と考えられる。

ルールの競争

 そこで鍵を握るのが,国境を越えたビジネス・ルールの調和・統一をめぐる競争である。1986年に始まるGATTウルグアイ・ラウンドは,マーケットアクセスに留まらず,知財,投資,検疫など広範なルール分野を交渉のテーブルに乗せ,1995年のWTO発足につながった。WTOドーハ開発アジェンダは,その名が示すように途上国の開発を重要課題の一つに取り上げ,先進国主導の国際機構に途上国・新興国の利害を組み込みながら合意を形成する試みだった。だが,まさに先進国と途上国の対立から交渉は滞っている。代わって,グローバル・ルールの形成の場として登場するのが,メガ・リージョン形成の動きである。

企業がつなぐ大西洋経済統合

 大西洋貿易投資パートナーシップ(TTIP)は,まさに上記の2つのパワーシフトに対応する試みである。交渉開始は2013年のことだが,そこに至るには前史がある。1990年,アジアの台頭を目の当たりにして,米国とEUは大西洋宣言を採択,1994年から企業主体の大西洋ビジネス対話が行われるようになり,1998年に大西洋経済パートナーシップが締結され,2005年には,規制,知財,投資,競争政策,サービス等の協力を進める大西洋経済統合・成長の米国・EUイニシアチブが開始された。2006年,EUは,WTO交渉を尊重しつつも,積極的に個別交渉を進めるグローバル・ヨーロッパ戦略を打ち出し,2007年には大西洋経済評議会が発足した。現在,TTIPは,マーケットアクセス,規制協力,ルール,制度の4分野で交渉が続けられている。

 欧米は,世界の輸出の25%,輸入の30%を占めるにすぎない(以下,The Transatlantic Economy 2016, Center for Transatlantic Relationsによる2014年データ)。だが,欧米は,世界の対外直接投資ストックの70%,対内直接投資ストックの60%を占めている。その背景には欧米間の企業レベルの緊密な連携がある。米国のEUからの輸入の60%は企業内貿易であり,これは米国と環太平洋諸国(43%),中南米諸国(39%)よりもはるかに高い。特にアイルランド,ドイツからの米国の輸入では,その比率はそれぞれ90.8%,70%に達する。同様に,米国の欧州向け輸出の3分の1は企業内貿易であり,特にベルギー,オランダ向けでは50%,ドイツ向けで32%,英国向けで24%である。

 こうしてみると,TTIPは,世界のGDP(購買力平価)の17%を占めTPP(11%)を上回るというばかりでなく,欧米主導でグローバル・ルールを構築し,欧米間の企業ネットワークのさらなる強化を通じて経済覇権を維持・強化する試みだ,と考えられる。

ISDSをめぐる欧米の対立と「市民社会の声」

 しかし,事実上,TTIP交渉は,投資保護と投資家対国家の紛争解決(ISDS)を棚上げにして進められている。その根底には,自国の企業利益を重視する米国と「公正」な競争を求めるEUとの認識の違いがある。2016年8月にアップル社が130億ユーロのEU制裁金を課されたことは記憶に新しいが,これまでも欧州委員会は,マイクロソフト、インテル、グーグルなど米国のグローバルICT企業に対して一貫して「公正」な競争を求めてきた。

 TTIP交渉について,2015年1月,欧州委員会は,パブリック・コメントに示された「市民社会の声」を踏まえて,2014年末に採択された投資家・国家仲裁の透明性に関する国連条約に準拠することを提案した。また,2015年7月8日,欧州議会は,TTIPに関する欧州委員会への勧告を賛成436対反対241(欠席:32)で採択した。ランゲ貿易委員長によれば,「公正」を確保するために,古いISDSに代わる新システムでは「公選仲裁人がチェック機能と透明性の原則の下に仲裁」を図る。

 『ファイナンシャル・タイムズ』紙の社説が指摘するように,今や欧米双方でTTIP批判が噴出しており,「世論の支持が必要」となっている(『日本経済新聞』2016/09/01電子版)。EUは,極めて不十分ながらも,欧州議会など国民国家を超える地域統合の次元で「市民社会との対話」を通じた説明責任(accountability)を果たす制度を備えており,「市場との対話」と「市民社会との対話」を両立しながら,多様なステイクホルダーがともに「公正」なものとして受容しうるルール作りの場を提供している。今日,消費者団体や環境NGO等の非国家主体も国境を越えてつながり,「市民社会の声」を示す新たなパワーの担い手となっていることも忘れてはならないだろう。TTIP交渉の困難が示すのは,いかにしてグローバルな次元で市場と社会の妥協と調和を確保するかという新たな課題であり,「市民社会の声」を考慮せずして,自発的に受容される新たなルールを定着させることは難しいと言わねばならない。

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