世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.654

判断よりもまずは記録,評価は時間をかけて

今井雅和

(専修大学経営学部 教授)

2016.06.13

 最近,近しい人が逝った。大恐慌の前年,昭和3年生まれで,享年88,米寿であった。終戦後,ロシア極東に抑留され,そのときイカやタラを食べ過ぎたといい,大食漢で偏食の無い人であったが,その後,それらはいっさい口にしなかった。ただし,そのこと以外,戦時,終戦後の自身の体験は家族にもあまり話さなかった。

 戦前の満洲事情やシベリア抑留のことが最近気になり,1年半ほど前に,この人に終戦前後の経歴と当時の出来事を聞き,メモしたことがある。昭和18年秋というから15歳のときに,志願して陸軍飛行学校に入校した。その後,福岡の大刀洗陸軍飛行学校,熊本の隈の庄飛行学校で訓練を受け,終戦のちょうど1年前の昭和19年8月に朝鮮半島北部の宣徳飛行隊に入隊した。昭和20年の春になると,この飛行隊の一部隊員は九州へ異動し,特攻隊に加わったという。

 この人は終戦まで宣徳に留まり,終戦直後にソ連軍が飛来し武装解除,帰国させる(ダモイ)といわれ,貨物船に乗せられるも,到着したのはナホトカであった。ナホトカは捕虜の集積地で,ここにいったん集められた多数の日本人捕虜がソ連各地に送られたようである。この人はナホトカに留まり,岸壁建設,港湾整備,漁業,海産物の加工,缶詰づくりに従事させられた。17歳から18歳にかけてである。1日の食事は支給される黒パン300gと魚のスープであったが,海産物の加工に従事する過程で,ロシア人の食べないイカ,タコのみならず,ホッケなどの魚もいくらでも食べられたという。ナホトカでの抑留生活は1年半,昭和21年の暮れに帰国した。

 この人の戦時体験は,約60万人がシベリアやソ連全域に連行,抑留され,最長11年,強制労働に従事させられ,そのうち1割の人びとが彼の地で命を落とした不幸な歴史のなかでは,相対的に見れば幸運だったといえるかもしれない。しかし,それでも多感な10代後半の時期に,間近でさまざまな不幸な出来事に触れたことが長く自らの体験を語らない理由だったのかも知れない。晩年,約70年前の終戦前後を振り返り,みずからの経験をようやく語り,書き,描き始める人が増えている。ただ,残された時間は限られている。かつて司馬遼太郎は,歴史は関係者がすべて亡くなり,鳥瞰できるようになって初めて正しい記述ができるようになるといった。そのためにも,われわれに課せられた使命はできうる限り,経験者の生の声を記録して留めておくことだと思う。

 しばしば,指摘されるように日本は,あるいは日本人は記録することにそれほど重きを置いてこなかったのかもしれない。先ほど,オバマ米大統領が広島訪問した際に,ごく一部ではあるが,謝罪云々という話題が出た。筆者は現役米大統領の訪問という事実こそが重要と思う。原爆の非人道性に関するコンセンサスはあっても,対応策については正反対の見解も,政策もあろう。ここで重要なことは事実を積み重ねることであって,早急に評価を下すことではない。将来,より正しい,あるいは少しでも悪くない評価を下し,判断できるようにするために,できる限り客観的な事実を積み重ねることだと思う。話題から少し外れたように思われるかも知れないが,記録することや事実を積み重ねることの重要性をまずは認識すべきではないか。そして,評価を,時間をかけて行うことで,より中立的な立場から物事を考えることができるようになるのではないか。多様な見解や異なる意見を収束し,歴史的な評価を下すためには相当程度長期に亘る時間が必要と思われる。

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