世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
欧州ゲートウェイ? セルビアの可能性?
(専修大学経営学部 教授)
2023.05.08
読者のみなさんは「(旧)ユーゴスラビアの7つ」を存知だろうか。筆者が初めて聞いたのは,はるか40年以上前,スロベニア人(当時はユーゴスラビア人)の恩師が祖国の多様性を次のように教えてくれた。曰く,7つの国と国境を接する6つの共和国に,5つの民族が暮らし,4つの言葉で,3つの宗教を信じ,2つの文字を使って1つの国を作っていると。現在は6つの共和国が独立し,それぞれが主権国家を形成していることはご存知のとおりである。3月にこのなかのセルビアの首都ベオグラード訪問の機会があったので,同国の現在を紹介してみよう。
ベオグラードは旧ユーゴスラビアの首都でもあったし,はるか2000年前のローマ帝国時代はシンギドゥヌムと呼ばれた。ドナウ川とサバ川が合流するこの町は交通の要衝で,歴史上,各民族,各国による争奪戦が繰り返されたバルカン半島の中心都市である。しかし,残念ながら知名度はそれほど高くない。時にはスペインのセビーリャ(注1)と混同されることがあるという。著名なセルビア人は何人もいるが,米国に移住し「交流送電」を実現したニコラ・テスラは,電気自動車の代表的ブランド名に採用されたことで,いまや「テスラ」を知らない人はいないかもしれない。ベオグラード国際空港は「テスラ」の名前を冠している。サッカーのストイコビッチやテニスのジョコビッチもよく知られたセルビア人である。セルビア人の平均身長は男182cm,女164cmと世界平均よりもそれぞれ11cm,5cm高いのだという。セルビアが水球の世界チャンピオンだというのもうなずける。
日本ではそれほど知られていないセルビアであるが,同国における日本の評判はよい。よくいわれるのは,世紀の変わり目前後の同国にとって苦しい時期に,日本から贈られた100台近い,新品の黄色のバス(Japan Donationと側面にマークされている)は現在も使われインパクトが大きかった。バス自体はドイツ製であったが,日本の工業製品の品質の高さへの憧れもあり,日本は好印象を持たれているようである。東日本大震災の折には,経済規模に比べ多額の義援金を送ってくれた。セルビアが親日国であることを如実に物語っている。
セルビアの知名度は,日本だけでなく,世界的に見てもそれほど高くはない。知られていないだけでなく,「紛争地」との誤解が未だにある。それもある意味仕方ないことかも知れない。社会主義諸国が1980年代の終わりから90年代にかけて,分離独立し,市場経済化を進めるなかで,旧ユーゴスラビアも例外ではなかった。というよりも,最も高い代償を払うことになった地域である。各民族が各共和国に入り混じって暮らしてきたこの国で,各共和国が民族主義を掲げ,独立を目指すなかで,流血の紛争が続くことになる。米国の広報代理店による「民族浄化」というセンセーショナルな言葉が流布し,セルビアは世界の孤児になってしまった(注2)。さらに,その後のコソボ紛争を受け,NATOによる空爆(注3)に見舞われた記憶が今も残っているかもしれない。ただ,国際紛争は善悪二元論で語ることができるほど単純ではない。コソボは日本を含む多くの国が主権国家として承認する一方で,セルビアは実効支配が及ばないものの,自国の一部であるという主張を取り下げていない。しかし,間違ってはいけないことは,セルビアはもはや紛争地域ではなく,周辺国との関係も安定し,正常な経済活動が行われているということである。ベオグラードは実に安全で安心して暮らせる町なのである。
セルビアの経済とビジネスを取り巻く現状について見ていこう。同国の人口は676万人(2022年,除コソボ,以下同じ)で漸減傾向にある欧州の一小国である。経済規模は709.1億米ドル,1人当たりGDPは10,360米ドルとようやく1万ドルを超えた新興国である。2013年から22年までの10年間を見ると年平均経済成長率は2.6%であり,世界経済の変動が大きかったことや人口が年平均0.6%減少していることを考慮しても,新興国としては少し寂しい数値である。
ただ,同国に進出している企業を見ると将来性を感じさせる。伊フィアット,自動車部品では独コンチネンタル,タイヤでは仏ミシュランであり,米マイクロソフトも進出している。日本企業ではJTIをさきがけとして,2010年代後半以降,矢崎総業,関西ペイント,前川製作所,TOYO TIRE,NIDECが生産進出している。欧州の自動車関連産業は,労働集約製品を中心に,この半世紀,西欧から南欧へ,そして中欧へ,21世紀に入るとモロッコ,チュニジアの北アフリカと南東欧へと生産立地が変遷してきた。この一環として,セルビアへの外国投資を理解することができる。セルビアはEU加盟候補国で,現時点では未加盟である。しかし,EUとはEFTA,周辺国とのFTAを締結済みで,欧州その他への生産拠点としての制度は整っている。工業国として,そして外国語が堪能で,デジタル教育を受けた人材が多いことからICT分野においても将来が期待される国である。
微弱なイオンを発生させることで,歯垢の除去を容易にするイオン歯ブラシを製造販売するアイオニックは,国内だけでなく,海外市場での販売にも力を入れている。同社の特長は,他社の追随が難しい独自技術による製品を販売しているだけでなく,「スマイル100才(Smile for Life)」は口の健康からという使命を大切にしているところにある。創業後一定期間を経て,急速な国際化を志向するという点で,ボーンアゲイン(生まれ変わった)グローバル企業といえる。ただ事業規模はそれほど大きくなく,世界各地の代理店を通じての国際マーケティングであり,いかに信頼できるパートナーと協業できるかがポイントとなる。
アイオニックは汎欧代理店として,20代から30代初めの若き起業家による会社であるセルビアのVisHealth社を指名している。同社は欧州各国にディーラーを配置し,オフライン,オンライン双方のチャネルで,アイオニック製品のマーケティング活動に従事している。中小・中堅企業にとって,とりわけ広範な市場をカバーしなければならない消費財においては,国際マーケティングのコスト負担はあまりにも大きい。しかしながら,理念を共有する信頼に値するパートナーを見つけることができれば,グローバルリーチの一歩を踏み出すことができる。確かに,EUができたとはいえ,欧州各国は言語,文化は多様である。しかし,多国籍企業が欧州本社で汎欧戦略を立案実行する一方で,各国の事業会社が当該市場を担当している現状は,効果と効率の両立を図るものと理解される。アイオニックとVisHealth社,各国のディーラーの関係も同様に考えることができる。実際,VisHealth社の経営者によれば,同社から欧州全域の市場をカバーすることはそれほど難しくはないという。このように考えると,特長的なプロダクトと良いパートナーという条件がそろえば,セルビアをゲートウェイとして,欧州市場へのアクセスを図る戦略も「あり」なのである。
スタートアップ企業や中小企業は国民経済を下支えするだけでなく,彼らの躍進が社会のあり様を次の次元に引き上げる推進力になることは論を俟たない(注4)。先進国もそうであるが,新興国,とりわけ社会主義から市場経済を進める国においては重要である。JICAベオグラード事務所はセルビアをはじめとする旧ユーゴスラビアのEU未加盟国とアルバニアを担当し,民間セクター開発の一環として中小企業振興に取り組んでいる。専門家派遣や研究生受け入れを通じて,企業経営における日本の知見を伝授する活動を続けている。地味ではあるが,カイゼン活動など一歩一歩の進歩が長期的には企業の足腰を強化し,良い経営を実現する一助になる。また,JICAの担当地域を見ると,企業もセルビアを1国として捉えるのではなく,バルカン半島全域をカバーする中心地としての進出もあり得るのかも知れない。
筆者はベオグラード訪問時,若手起業家が集まるフォーラムに,現地経営者とともにパネリストとして参加した。20代を中心とする若い経営者たちは,起業直後から欧州市場を意識している。主に事業の国際化のタイミングと進め方についての意見交換がなされた。彼らはともかく明るく前向きで,チャレンジすることを楽しむような雰囲気がある。本国市場の矮小性は,かつてはハンディであったが,設立当初から世界を意識する経営は今日においてはむしろプラスに転化する可能性がある。米国でなく欧州に,そして欧州のなかでもスイスや北欧のような小国には存在感のある多国籍企業が多数存在する。ボーン(生まれながらの)グローバル企業がセルビアから多く生まれることを期待したい。
このように,セルビアは目立たないが,一国単位ではなく,南東欧を面で見たり,さらには欧州へのゲートウェイとしてグローバル戦略を策定したりといった,大きな構想が可能ではないか。人的資源の面でも有望である。セルビアの教育レベルの高さ,そして昨今の混乱からロシアなど周辺国から避難するICTエンジニアなど,賃金に比べて能力の高い人材の雇用が可能である。マイクロソフトが大規模な拠点建設を進める背景が垣間見られる。唯一とはいわないが,可能性を秘めた有望なビジネス立地の1つとして,セルビアを加える価値はあると思われるのである。
[注]
- (1)ロッシーニのオペラ「セビーリャの理髪師」で知られる,スペイン・アンダルシア州の州都である。
- (2)丸山純一(2022)『セルビア紀行』かまくら春秋社。
- (3)ベオグラード市内の空爆されたかつての軍関係ビルがそのままの残されており,通りは通称空爆通りと呼ばれている。
- (4)坪田哲哉(2015)「中小企業振興」柴宜弘・山崎信一編著『セルビアを知るための60章』明石書店。
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