世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.3993
世界経済評論IMPACT No.3993

国境と世代を越える戦争責任

重原久美春

(国際経済政策研究協会 会長)

2025.09.15

 戦争責任という問題は,私にとって決して抽象的なものではない。それは,戦場に送られ若くして命を落とした父,父の戦死に伴い寡婦となり,幼い私と弟を育て上げるため苦闘した母,への思い出と切り離されることなく,私の心の中に生き続けている。父は職業軍人ではなく,戦を望む人でもなかった。学校で子どもたちを教え,家族を支えながら暮らしていた。だが徴兵により,彼は自ら選ばぬ戦いに駆り出され,沖縄の地で戦死した。彼の死とともに,私はある問いを背負うことになった ― 戦争の渦に巻き込まれた一般国民は,どのような責任を負うのか。

 アジア・太平洋戦争における日本の戦争責任は,多くの場合,主として日本帝国軍の指導者たちと政治家たち,そして統帥権を持っていた昭和天皇,の責任問題として議論されてきた。しかし,権力の頂点に責任を帰すだけで十分なのか?下の階層を埋め尽くした人々の責任を見過ごしてしていないか? 軍国主義の流れに巻き込まれ,従わざるを得なかった一般国民 ― 父もその一人である ― が戦争の被害者であると同時に,加担者でもあり得ることが,常に私の問題意識にあった。強いられつつ,関与し,沈黙させられながらも責任を免れない存在として。

 今,中東に目を向け,イスラエルの市井の人々の姿を見ると,私は再びあの厄介な問いに立ち返らざるを得ない。歴史的文脈は大きく異なるが,その類似は私を不安にさせる。戦時下の日本は,明治憲法の天皇制の下で中央集権的な国家であり,やがて全体主義の波の中で異論はほぼ完全に押し潰された。父のような教師には選択肢はなく,徴兵され,動員され,沈黙を強いられた。そのような状況での一般国民の戦争責任は,当時の国家体制における強制の重みと切り離せない。

 1940年代の日本と現代のイスラエルを同一視するのは誤りだろう。一方は帝国的独裁国家,他方は現代の民主国家である。市民は政治指導者を選び,支持や反対を表明し,抗議や賛同の行進に参加できる。ゆえに彼らの責任は明治憲法の下での日本の一般国民よりはるかに重い。彼らは決断の権利を持っている。だが,ここでもまた,別の形の強制が潜む。イスラエル市民は,民主主義国家で作られた法律のもと義務的兵役制度に縛られている。彼らの生存そのものが犠牲を要求するという切迫した感覚に包まれている。こうした状況での一般国民の戦争責任は不均衡で,重層的で,倫理的に複雑なものとなり,銃声が止んだ後も遺産のように長く残り続ける。

 イスラエルが絡んだ中東紛争の余波はパリのシナゴーグ,ニューヨークの学校,ブエノスアイレスの街区にまで及ぶ。イスラエル国民でないユダヤ人はイスラエル国内で選挙権も公的役割も持たない。だが,記憶とアイデンティティの絆が無関心を許さない。彼らにとって問題は,イスラエルの軍事行動そのものに関する責任の有無ではなく,軍事行動の背景にあるイスラエルの政治体制にいかに対処するかである。

 海外のユダヤ人には,イスラエルの歴史と血縁,そしてイスラエルが「他の国々のひとつ」ではなく,脆く争われる「祖国」であるという感覚を通じて,道義的責任の問題から逃れられない。イスラエルが外国の軍隊やテロリスト集団に攻撃された時にはこの絆は痛みにまで研ぎ澄まされ,応答を迫まられる。危機の時において明確なのは,連帯という役割である。イスラエルに住む彼らの家族たちに「あなたたちは一人ではない。海外に離散したユダヤ人が共にある」と伝えることは深い意味を持つ。そして中東が燃えると必ず高まる反ユダヤ主義に直面した時,その連帯は象徴であるだけでなく,防護の役割を果たし,海外のユダヤ人共同体が逆風を耐える助けとなる。

 だが真の連帯は,過ちに沈黙することではない。まさにロケットの恐怖や悲嘆の影に直接晒されていないからこそ,海外のユダヤ人は良心の声を保つことが出来る。彼らはイスラエルに思い起こさせることが出来る。ユダヤの伝統は,流浪と苦難から生まれたがゆえに,生存だけでなく正義・抑制・慈悲をも要求するのだと。

 この責任は,イスラエル軍の報復がパレスチナ市民の命を奪う時,いっそう鋭さを増す。イスラエル市民に対するハマスの攻撃は言語に絶する犯罪だった。しかし,その後のイスラエル軍による反撃がパレスチナにおける女性や子ども,非武装の人々に降りかかるとき,海外のユダヤ人は痛切なジレンマに直面する。イスラエルとの絆を肯定しつつ,パレスチナの苦難に目を閉ざさないためにはどうすべきか。より深い掟 ―「罪なき命は,ユダヤ人であれパレスチナ人であれ,聖なるものだ」という掟への忠実さ,これは,イスラエルに対する裏切りではない筈だ。

 私は親しい友人である海外在住ユダヤ人に以下のように訴えている。

 「自由社会に暮らす海外のユダヤ人は,嘆くだけでなく行動できる。イスラエルに停戦と外交を推し進めるよう訴えることが出来る。ユダヤ人としてのアイデンティティをイスラエルの軍事政策への自動的支持から切り離し,イスラエル共同体を偏見から守ると同時に,道義的信頼性を保持することも出来る。そして,自らが住む国でパレスチナ人や他者と橋を架け,戦争が押し付けようとする分断に抗する対話の場を築くことが出来る」と。

(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article3993.html)

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