世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.3848
世界経済評論IMPACT No.3848

フリクションレスな購買体験の光と影

白井美由里

(慶應義塾大学商学部 教授)

2025.05.26

 企業が競争力を維持・強化する上で,持続的で質の高い顧客体験の提供は欠かせない。なかでも特に注目を集めているのが「フリクションレスな顧客体験(frictionless customer experience)」である。ここでいうフリクションとは,顧客が感じる面倒や煩わしさを指し,フリクションレスはその逆,つまりストレスのない状態を意味する。したがって,フリクションレスな顧客体験の提供とは,顧客に対してスムーズで快適な体験を提供することを指す。アマゾンは,1997年にワンクリック決済の「1-click shopping」,2016年にレジなし決済の「Amazon Go」,2020年に手のひら認証決済の「Amazon One」を導入するなど,フリクションレスを実現する多様なサービスを展開しており,この分野をリードする存在となっている。

 多くの企業では,顧客体験を向上させるには,顧客の痛点である「フリクション(煩わしさ)」をさまざまな技術によって削減することが不可欠だという見解が一般化している。では,フリクションを減らすことにはどのようなメリットがあるのだろうか。それは,顧客が商品やサービスの購買プロセスをスムーズに進められれば,その満足感から企業に対してポジティブな態度を持ち,長期的な関係構築への意欲を高める,という点である。

 顧客が購買プロセスにおいてフリクションを経験すると,ネガティブな感情が喚起され,意思決定の効率が損なわれてしまう。たとえば,選択肢や商品情報が多すぎる場合,顧客は判断に迷い,購買を先延ばしにしたり,無難で中間的な商品を選択したりする傾向がある。このように,労力がかかり,心理的にも快適とは言えない状況での意思決定は,選択への満足感や自信を低下させ,企業の評価にネガティブな影響を与えるおそれがある。顧客は欲しい商品をスムーズに選べる体験に,より高い価値を見出しやすいのである。この傾向は,特に顧客の忍耐力が低いとされるオンラインショッピングで顕著に現れるという指摘もある。

 フリクションレスへの関心は,新型コロナウイルス感染症のパンデミックによって非接触型の顧客体験への需要が急速に拡大したことを背景に,いっそう強まった。また,AIや機械学習の進歩により,アルゴリズム・バイアスやプライバシーに関する懸念はあるものの,顧客が必要とする情報の提示や商品提案が可能になり,フリクションレスな顧客体験の実現可能性は一段と高まってきている。こうした中で,顧客体験は「感動を与えること」から「顧客を維持するための競争手段」へと役割が変化しつつあるという意見も増えている。

 ところが,その反面,フリクションレスな顧客体験に対して疑問を呈する声も上がっている。フリクションが少ないと,顧客は自らの意思決定について十分に考慮しなくなり,購買や選択に対する確信が弱まりやすい。その結果,商品との心理的なつながりやロイヤルティの低下を招くという懸念がある。一方,フリクションが多い場合,意思決定のスピードは落ちるものの,思考が深まりやすくなる。これにより,顧客に対する不安や後悔が減り,選択を正当化しやすくなるため,満足度やエンゲージメントの向上につながる。つまり,顧客の努力は意思決定の意味づけを強化し,選択した商品への評価を高める効果をもたらすことから,一定の努力を伴うフリクションは必ずしもネガティブな体験とは限らない。

 たとえば,家具の大手小売業者であるイケア(IKEA)が販売する組み立て家具にちなんで,顧客が商品に関与することでその商品に対する愛着が高まり,主観的な商品価値が増す現象は「イケア効果」と呼ばれる。これは,フリクションがポジティブな体験を生む好例とされている。また,美味しいものや魅力的な商品を選ぶ際には,しばしば情報収集や比較といった一定の努力を伴うことが多いが,こうしたプロセス自体が後の消費体験を高める快楽的な要素として機能することもある。さらに,フリクションは,将来の購買量の増加やポジティブな口コミの創出につながる顧客の維持に寄与し,同時にそうではない顧客の離脱を促す仕組みとしても捉えられている。

 以上のことから,良質なフリクションと有害なフリクションを適切に区別することは,顧客体験の設計において極めて重要であるといえる。企業は,顧客にとって有益なフリクションを意図的に設ける一方で,過剰なフリクションや不要な障害を取り除く努力が求められる。良質なフリクションは,顧客による選択肢の理解と評価を促し,選択の質を高めるとともに,企業や商品に対する選好やロイヤルティの形成にもつながる。また,企業と顧客の間に効果的なコミュニケーションの機会をもたらす点でも意義がある。一方で,有害なフリクションは顧客の主体性を損ない,体験の質を低下させるおそれがある。企業がフリクションを適切に活用するためには,顧客の購買プロセスを丁寧に精査し,ニーズや心理的特性を踏まえた上でフリクションの性質を見極め,状況に応じた最適な体験の設計を行うことが求められる。

[注]
  • Bertini, M., Aparicio, D. & Aydinli, A. (2024). Can friction improve your customers’ experiences? MIT Sloan Management Review, 65.
  • Gosline, R. (2022). Why AI customer journeys need more friction, Harvard Business Review, June 9.
  • Padigar, M., Li, Y. & Manjunath, C. N. (2024). “Good” and “bad” frictions in customer experience: Conceptual foundations and implications. Psychology & Marketing. 42.
(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article3848.html)

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