世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
ウクライナ停戦への圧力:選挙での虚勢と実現に向けての空疎な準備
(関西学院大学 フェロー)
2025.01.20
トランプ候補のウクライナ停戦公約
「大統領就任後24時間以内にウクライナ停戦を実現させる」。選挙戦の最中,トランプ候補は何度も同じフレーズを口にした。
交渉上手を自任し,周囲からは予測不能と目されるトランプの,この選挙公約は,「これ以上の大虐殺を防ぐため」という大義名分とも相俟って,関係諸国に地震の予知波の如く伝播。「それならば」と,戦場でのロシア優位の状況下,どちらかと言えばウクライナ側に不利な形での,停戦協議開始に向けた国際的風圧が否応なく高まって行く。同時に協議の前提となるであろう領土をめぐる陣取り合戦が勢を増す。ロシアのウクライナ領内での,人海戦術的な侵攻攻勢。それに対する,兵力面で劣るウクライナの,ロシア領内へのドローンやミサイルを使った攻撃激化やロシア領クルクス州への逆攻勢等は,そんな事情を物語る。
他方,去りゆくバイデン政権が,ロシアに追加の経済制裁を科したり,ウクライナが自国領内を通過して欧州に輸出されるロシア産天然ガスの領内通行許可契約を打ち切ったり,或はロシアが,軍兵士の動員数を大幅に増加する等々,筆者の見立てでは,これら全ては,停戦交渉が始まった場合の交渉材料,要は,停戦協議へのムードが高まると,皮肉なことに,戦争が一層エスカレートしたという顛末である。
だが,朝鮮戦争時の休戦協定に思いを馳せれば容易に分かるように,交渉開始から停戦に至るまで大小の協議は計500回以上2年以上に渡った。開戦から1000日以上を経過し,双方に大量の犠牲者を出すウクライナ戦争が充分な事前準備のない中,たとえトランプの選挙公約だからと言って,そう簡単に停戦が実現するものではあるまい。
案の上,1月7日,執拗に「24時間で停戦」の選挙公約実現を質問する記者団に,トランプは「状況は遙かに複雑になっている」とし,「半年以内,出来ればそれよりずっと早くウクライナ戦争を終わらせたい」と,自ら設けた期限を先延ばしするに至るのだ(日本経済新聞1月9日)。
トランプ候補がウクライナ戦争の早期終結を公約し始めたのは,昨年4月。この問題を同候補にブリーフィングした,ケイス・ケロッグ元退役陸軍中将(Lieutenant General:トランプ政権下でのウクライナ問題特使に就任予定)が,「ウクライナが停戦交渉を拒否した場合には,米国からの軍事支援を減らし,他方,ロシアが交渉を拒否した場合には,ウクライナ向け軍事支援を増やす」といった類の案を提言してからだという(NBCニュース;2025年1月1日)
以降,トランプ・チームは具体的な停戦素案を練り上げる作業に入り,それをベースに,トランプは「ウクライナ戦争を就任24時間以内に停戦させる」と,彼特有のセンセーショナルな物言いで公言するようになったのではないだろうか…。
そして選挙戦に勝利するや,トランプはプーチンに,停戦交渉に入るように促す連絡を直接行ない,その背後で,ケロッグ・チームが纏めた停戦素案もロシア側に渡ったと筆者は推測する。かくしてプーチンも,トランプからの働きかけに,基本的に応じる姿勢を示すに至る。
具体的には,12月19日の,恒例の年末記者会見でプーチンは,現在のロシアの軍事能力は世界最高水準だと誇った上で,「政治は妥協の芸術である」とわざわざ強調,「トランプが望むなら,自分は,米国の次期大統領との会談に応じるつもりだ」と発言したのだ。
尤も,その言いぶりも,首脳会談の実現を示唆しただけで,停戦交渉への言及は一切なかった。しかも,その発言の直後,プーチンは首脳会談について,“I don‘t know when we will meet because He doesn’t say anything about it”と続けたのだ…。
しかも,そのプーチンの舌の根も乾かぬ12月23日,ラブロフ外相がケロッグ案を,「ウクライナのNATO加盟は一切認められない」との従来の主張を楯に,あっさりと拒否してしまう(TASS News Agency)。ここら辺りに,トランプ側を翻弄するロシアの態度が露わになっていると考えるのは,筆者だけであろうか…。
漏れ伝わるケロッグ案は,「ウクライナのNATO加盟を20年間先延ばしする」。「ウクライナでの停戦監視のために,英国や欧州諸国の平和維持軍が,ウクライナ領内に敷かれる休戦ラインに沿って駐留する」等々の内容だったとのこと。
こうした経緯を観ていると,トランプの停戦への働きかけは,1月7日の延期発言の時点で出直し状態に戻ったと考えるべきではあるまいか。勿論トランプのこと,交渉の目的を即時に停戦からプーチンとの面談に切り替えた模様だが…。そして,トランプは,ウクライナのNATO加盟に難色を示すプーチンに共感を覚える,とのメッセージすら発するのだ。ともあれプーチンは,米ロ首脳会談の可能性にYESの返事を公にする。トランプ・チームは,今後,大忙しで停戦案の内容を練り直しに入るに違いない。
しかし,ロシア側の専門家は,首脳会談が停戦協議の内容が充分に熟する前に行なわれるなら,それはむしろ戦闘のgreater escalationに繋がる恐れが大きい,と警鐘を鳴らすことを忘れない(NYT2025年1月10日)。
ウクライナ・ロシア,それぞれの国内事情
以下では,停戦論の原点に戻り,ユーラシア・レビュー誌論文(2024年12月14日;PAUL GOBLE元Azerbaijan Diplomatic Academyリサーチ・ディレクター著)を概観しておくことにする。
…2024年に起こった最も重要な変化は,モスクワ,キエフ双方の“勝利”概念が,当初より大幅に小さくなった事実。
…プーチンは,西側との対立軸ので戦争を捉え,ウクライナを再び自陣に引き戻すことを目標としていたが,プーチンは,戦争を通じ西側諸国に大いなる失望感を与えることを目標に掲げ始めた。停戦実現の果実として,キエフへの武器を供与させない,NATO加盟を認めない,或は,対ロ制裁を解除させることを,より上策と判断するに至ったのだ。
…停戦でこれらが達成できれば,プーチンは「ロシアは西側を後退させ,嘗てのソ連邦諸国にロシアの影響力の強さを顕示出来た」と主張できる…。
…この変化にはロシア社会の戦争重圧感も大いに影響している。プーチンへの国内の支持は広い。しかし,支持は広くても,深くはない(more broad than deep )。人々は,プーチンの行動を支持しても,戦争のために個人の生活を犠牲にするかとの問に肯定的答えは少ない。
故に,この論文の執筆者は,「クレムリンは,ウクライナ戦争を遙か彼方の紛争で,ロシア社会の日常のそれではないと,意図的にイメージ付けしようとしている」と捉えるのだ。
…更に,ロシアは兵員を確保に限界を感じ始めており,犯罪者たる受刑者を軍役に引っ張り出し,しかも多額の給与を支払うなど,常態ならば考えられない社会価値観上の転倒を引き起こす方を選好している。ロシア社会には傷痍軍人の姿が目立ち始めており,社会保障関連に回るはずの予算も,戦費確保のため縮小を余儀なくされている。日常の中に,否応なく戦争の影が出始めているのだ。
…ゼレンスキー大統領にも情勢認識の変化があった。ロシアに占拠された領土の全てを,回復するのは最早無理(ウクライナは現状,全領土の5分の1をロシアに占拠されてしまっている)…。今は戦争で受けた経済・社会・軍事各分野の被害を,如何に迅速に回復させるかが,最大の課題。もし停戦が実現すれば,自国の安全保障を一層強固なものにするための西側のコミットを深め,防衛能力と破壊された社会機能の復旧ができれば,当面の外交上の勝利と位置付け得る。
…この勝利認識の変化には,ロシアと同様,戦争によって被った社会コストが無視出来なくなっている事実がある。抗戦しようにも兵力も武器も足らず社会インフラ(特に住宅と病院)が大きく損傷している。国民の海外逃避も多くとりわけ若年人口の減少が深刻で経済活動の維持にも支障が出始めている等々。
…また欧州諸国の支援も陰りが出始めている。欧州諸国で極右勢力が台頭し,政権当局を脅かし始めているし,そうした各国情勢により今まで以上の支援を引き出すのは望み薄になりつつある。
…そんな中,大統領選挙に勝利したトランプは停戦公約に掲げ,ウクライナを困惑させている。もしトランプ,停戦のためにウクライナに向けた支援を,絞り込むような措置を講じるなどと言い始めたら…。
論文の執筆者は,現況はロシア有利にと,下記の如く結論づけるのだ。
…ウクライナは西側諸国がモスクワに譲歩しがちなことを熟知しており,NATO加盟も許可しそうにないと良く分かっている。
…ロシアは自国の生存を脅かす脅威(existential thereat)であり,これから逃れるには,ロシアが変わるか,或は,NATOが保障の手を差し伸べてくれるかのいずれかしかない。それのいずれもが難しいならば,自分の安全は自分で守るしかない…軍事用途のドローンの生産に傾注しているのも,そうした最悪の孤立の場合に備える意味合いが色濃いのだ。
…「いずれにせよ」と,執筆者は結論を下記のように結ぶ…
停戦が成立には如何なる合意内容が含まれなければならないか?”
そうした必要な条件を論じた,米国のForeign Affairs誌の論文(2024年12月24日;ランド・コーポレーションのSAMUEL CHRAP研究員著)を一瞥してみよう。
…“A Pathway to Peace in Ukraine”と題する論文で,バイデン政権とトランプ次期政権の明白な違いから論を進める。前者は出口(endgame)を決めずに,戦場での,ウクライナへの断固とした支援を強調するのみ。対して,後者は,どうすれば交渉によって,戦争の出口に達することが出来るかに焦点を当てている。
…停戦が恒常化するには,少なくとも次の四つの要素が盛り込まれていなければならない。一つは,ロシアの更なる侵略行為を抑止すること,
二つは,ウクライナの安全を保障すること,
三つは,停戦が維持されるようなインセンティブをロシア,ウクライナ双方に与えること,四つは,ロシアと西側との関係を安定させること。そして,この4項目には,今回のロシアのウクライナ侵略への責任が盛り込まれていなければならない。
…ウクライナの安全にはNATO加盟問題が何時も持ち出されるが,これは難題。バイデンも,トランプも,NATO加盟には積極的にはなり得ないだろう。ロシアは,NATOの脅威を,ウクライナ侵攻の口実に使ったのであり,NATOの東進がロシアにとっての最大の脅威だと位置付けているのだからだ。故に,プーチンが,ウクライナのNATO加盟を容認する可能性はまずない。
…ウクライナのNATO加盟の代案とは。この脈絡で論文執筆者は,二つの案を挙げている。一つは,朝鮮戦争終結直後,米国が韓国との間で2国間の相互安全保障授約を結び,万が一ソウルが攻撃された場合,米国が支援する旨を誓約した。また1973年の中東和平時にも同様の方法でイスラエルの安全を保障した。だが今の米国がこの方法を採用する可能性は少ないのではないか…。
…もう一つの可能性案は,ウクライナのNATO加盟ではなく,EUへの正式加盟だ。
EU条約42.7は相互支援条項と呼ばれる。この規定によると,「もし加盟国が,その領土を軍事侵略された場合,他のEU加盟国はあらゆる手段で被害国を支援する義務を負う」と規定している。
このEUの規定は,加盟国に対する拘束力が強い。しかもロシアはウクライナのEU加盟に「反対の立場に固執しない」旨,2022年の交渉時に表明しているという。だから,論文執筆者は,ウクライナをこの規定で守ってはどうか,と提案するのだ…。
…いずれにせよ,米国がロシア,関係諸国と,停戦協議を始める際,避けるべきは以下の4点と,論文執筆者は主張する。
- ①期待の過度な高まりを管理すること。過度な期待は,内容不十分な合意を導き易い。この種の停戦協議は,先例を見ると,長期の時間と政府高官の強固なコミット,複雑な利害調整を不可避のものとし,それ故に,短期で解決するものではないのだから…。
- ②一方を譲歩させるのに,力を使うこと。トランプ案では,例えば,ウクライナが言うことを聞かなければ支援の減額を,逆に,ロシアが言うことを聞かなければ,ウクライナ支援の増強を,と言った考えと側聞するが,これは交渉に悪影響のみを残す…。
- ③米国は停戦協議を当事者ウクライナを外して,ロシアとだけで大筋取り決めてはならない。
- ④米国は,欧州諸国や日本の,停戦協議への関与も確保しておかなければならない。ウクライナのEUへの加盟は,前記理由で大きな可能性を秘めるものだし,西側同盟国の関与は,ウクライナ再建に不可欠なものだから…。
ロシア側の交渉入りの前提条件と目されるのは?
トランプ再選でロシアは「交渉の可能性」には前向きな姿勢を示してきた,と米国の研究者達は声を揃える。米国のシンクタンクForeign Policyの2024年11月20日のブリーフィングを,本稿の最後に,紹介しておこう。そこには,何人かのロシア政府要人の発言を集約し,ウクライナ停戦交渉入りのロシア側の条件を次の諸点だと紹介している。
- ①ウクライナ国内の戦線を現状で凍結すること(但し,その詳細は交渉の余地あり),
- ②クリミアは放棄しない,
- ③ウクライナのNATO加盟は認められない,
- ④ウクライナ領土内のNATO加盟諸国の兵士は撤退すること,
- ⑤ロシアが領有を主張する地域からウクライナ兵士は撤退すべきこと,
- ⑥短期の停戦は,ウクライナがその期間を利用して軍備強化を図るだろうから,受け入れられない,
- ⑦ウクライナは以後,自国兵力を一定規模に制限する,
- ⑧ウクライナは以後,領内でのロシア語使用を禁じない(尤も,既存のウクライナ憲法はロシア語使用を認めているが…)等々。
こうしたロシア側の諸条件は,いずれもウクライナ側に譲歩を迫るものばかりで,このままウクライナが飲むはずもない…。
この種の条件を,米国メディアにモスクワの研究者が開陳すること自体,筆者はロシア側の交渉戦術のような気もしている…。
そして,トランプ・チームの交渉姿勢は,このロシア側の条件を暗黙裏に飲む前提で,交渉に入りかねない危険をはらむ。紙幅の都合で割愛したが,筆者が本稿のサブタイトル案に「試行錯誤のトランプ次期大統領,警戒するルッテNATO事務総長,怯えるゼレンスキー大統領,ほくそ笑むプーチン大統領」を検討した所以である。
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