世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.3691
世界経済評論IMPACT No.3691

関係的取引の代償

池部 亮

(専修大学商学部 教授)

2025.01.13

コミッション社会

 私は現在,1年間の予定でベトナムのハノイに滞在している。2024年4月に着任した当初,アパートの近所の床屋へ髪を切りに行くことにした。アパートの受付の中年女性にそれを伝えると,「見ず知らずの店に入ったら不当に高い料金を取られたりするから私が紹介してあげる」というので,彼女が勧める床屋に行くことにした。その床屋も近所にあり,散髪と洗髪と頭皮マッサージで30万ドン(約1,800円)だった。ベトナムの友人にそのことを話すと「それは高いですよ。路地裏の店なら10万ドンくらいですよ」と教えられた。確かに,自分で見つけて立ち寄った散髪屋で髪を切って頭皮マッサージをして15万ドンだったから,紹介されて最初に行った店はずいぶんと高かったことに気づいた。こうした紹介料,コミッションといった中間マージンの習慣はベトナムでは市民生活の隅々にまで浸透しており,最終的には末端価格を引き上げることになる。

 どの社会においても生活を営む上で他者との関係構築は欠かせない。企業間取引や社会的取引において,不確実性やリスクが高い社会においてはなおさら関係的取引が必要となり,関係構築のための投資も必要となる。コミットメントを築いた関係取引を内集団取引という。内集団取引は中長期反復取引とか系列取引とも言い換えられる。

機会費用

 機会費用とは「選択しなかった方の選択肢が持つ便益と費用のこと」である。物事には便益があって,その対価として費用を支払う。いうなれば費用対効果であり,費用に見合った便益を得ようと人は日々選択を繰り返している。内集団取引は外部に多くの不確実性が存在する社会では取引コストを引き下げる効果がある。外部にそれほど多くの不確実性やリスクがないのであれば,もっと費用が安く,便益も大きな取引が市場に存在するかもしれない。そう,もっと安い散髪屋が市場にあることに気づかずに,最初に紹介された店で私が髪を切り続けていたら,私は多大な機会費用を生じさせながら関係的取引に留まることになる。企業活動において,内集団取引は新規取引先の発掘よりも既存取引先へのルート営業が重視される。関係的取引偏重の取引慣習が続けば,当然のことながら市場で正しい選択を繰り返すライバルが出現すると自社の競争力は低下していくことになる。現在のベトナムでは不確実性は以前と比べ小さくなっているはずである。それなのに社会や個人が依然として関係的取引を志向することは多額の機会費用を生み出し末端価格を引き上げ,経済厚生を低下させる一因となっている。

関係構築投資

 内集団取引の内部は関係的取引で満たされている。関係は地縁や血縁のほか同窓生や友人,そして長年の取引相手などとの間で構築されている。集団の内部では裏切られたり騙されたりすることはほとんどなく,安心が担保されている。ベトナムは歴史上多くの戦乱を経験してきた。戦争下の社会や市場には大きな不確実性が存在するので,関係的取引が必須となる。また,戦時経済体制は統制が強まるので行政担当者の権限も大きくなる。南北統一後もベトナムは社会主義国として計画経済を推進した。計画経済下の社会は資源配分権者が存在する。全ての生産財(資本)は国家(全人民)に帰属し,生産財の配置と生産物の配分を決定するのは市場ではなく人である。国営企業だけでなく一般市民にとっても資源配分権者とどれだけ親しい関係を構築できるかが,組織や家族を豊かにする,あるいは貧困を回避する上で必要な処世術であった。行政サービスや市民生活において関係構築のためのコミッションが広く適用されるのもこうした歴史的な事情が背景にある。日本人の中にはこうしたコミッションを賄賂と捉える向きもある。賄賂や袖の下という費用は本来実現が難しいことをお願いしたり,お目こぼしを得るための付け届けであり,日常業務に必要となるコミッションとは性格が異なる。どちらも不透明な費用という点では同じでも,賄賂は汚職とされるが,コミッションは悪いことではないという認識がベトナム社会では一般的であるため,なかなかなくならない。

市場取引のすすめ

 関係的取引の多くは役割を終えたものも多いのではないか。だとすると,現在のハノイの消費生活は多大な機会費用を支払っている状態になるので,内集団取引を市場取引へと転換していくことで経済効率を高めることができる。ネットショッピングやオンライン予約,キャッシュレス決済やライドシェアなど,売り手と買い手がプラットフォームを介して直接繋がる時代である。コミッションの多くはポイント制度に置き換わり,紹介料や口利き料はクチコミや評価によって代替されている。ベトナムの経済厚生を高める上で,取引の効率化は避けては通れない。関係的取引の代償として社会が負担する費用の削減が急務である。

(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article3691.html)

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