世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.3538
世界経済評論IMPACT No.3538

世界的軍拡競争の渦中でのASEANの選択:AOIPと「平和の共同体」構想

西口清勝

(立命館大学 名誉教授)

2024.08.26

 現下の世界は激しい軍拡競争の渦中にある。SIPRI(Stockholm International Peace Research Institute:ストックホルム国際平和研究所)の最新のデータ(SIPRI 2024a, SIPRI 2024b)によれば,世界の2023年の軍事費は2兆4430億ドルとなっている。それは,前年比で6.8%の増加であり2009年以降最も高い増加率となり,SIPRIが統計を公表し始めた1988年以降で最高額になっている。

 このように世界的に大規模かつ急激な軍備拡大が行われている中にも拘わらず,それに頼らず国民世論の力と外交力によって平和への途を目指す試みがなされている具体的な事例があることは注目に値する。それは東南アジア地域の10か国から成るASEAN(東南アジア諸国連合)が選択している途であって,本稿は,紙幅の制約から,ASEANを取り巻くインド太平洋地域(域外との関係)とASEAN加盟国間のそれ(域内の関係)に焦点を絞って,その現状と理由について考察することを目的としている(注1)。

 ASEANとインド太平洋の主要諸国を包摂する機構を目指してEAS(東アジアサミット)が成立したのは2005年のことであり,現在ASEAN10か国と域外の8か国(日本,中国,韓国,インド,オーストラリア,ニュージーランド,米国およびロシア)の計18か国から構成されている。SIPRIの2023年のデータによれば,世界の軍事費上位15か国の中にASEANは1か国も入っていないが,域外の8か国の場合はニュージーランド1か国を除いて7か国が全て入っている。この7か国の軍事費の合計は1兆5350億ドルで世界の軍事費に占める割合は62.8%にもなっている。インド太平洋地域が21世紀における世界の経済成長のセンターとなるとの見通しに加えて世界の軍事費の過半を大きく上回ることから,米中対立による「新冷戦」の舞台がこの地域になるというと言う議論が近年盛んに行われている所以である。しかし,同年のASEAN10か国の軍事費の合計は478億ドルであり,世界の軍事費に占める割合は2.0%に過ぎない。ASEANの軍事費のこの10年間(2014-2023年)の増加率は24%となっているが,それは名目価格(current price)によるものであって,実質価格(constant price)で測るとほぼ横ばいで推移しているだけではなく,直近の2022年と2023年の対前年比では,4.0%減と1.6%減となっている(注2)。

 世界およびASEANを取り巻くインド太平洋地域において大規模で急激な軍備費の増加が行われているのも拘わらず,何故ASEANにおいては軍事費の増加が生じていないのか。ASEAN事務局が刊行する出版物には,ASEAN経済は成長を遂げ今や世界のトップクラスの経済規模に達しているとの記述が好んで用いられるようになっており,事実2023年のASEANのGDPは前年度比で4.1%の成長を遂げ3.8兆ドルとなり世界のGDP総額の3.6%を占め,米国,中国,ドイツ,日本に次いで世界第5位の経済規模となっている(ASEAN 2024, IMF 2024)。軍事費を増加する財源がない訳ではないのに,軍拡への途ではなく平和への途が選択されているのである。何故か。その主たる理由は,ASEANがTAC(Treaty of Amity and Cooperation in Southeast Asia,東南アジア友好協力条約:1976年2月の第1回ASEANサミットで採択)の理念を継承し,インド太平洋地域において「平和の共同体」を構築することを目指すAOIP(ASEAN Outlook on Indo-Pacific,ASEANのインド太平洋に関する展望:2019年6月の第34回ASEANサミットで採択)の構想を堅持しその実現のために不断の努力を行ってきていることにある,というのが筆者の見解である。

 ASEANはヴェトナム戦争の最中の1967年に結成され(原加盟国はインドネシア,マレーシア,フィリピン,シンガポール及びタイの5か国。1984年にブルネイが加盟),ヴェトナム戦争終結(1975年4月)の翌年2月に開かれた第1回ASEANサミットにおいて,東南アジア地域における永続的平和と安全を確保するための方法及びそのための地域協力のあり方についての法的枠組みの必要性が提唱され締結されたのがTACである(外務省 2004)。したがって,TACの目的(第1条)は締結国の国民間の永久の平和,永遠の友好および協力の促進にあり,その原則(第2条)として意見の相違や紛争の平和的手段による解決を図り武力による威嚇や武力行使の放棄を定めている。このようにTACが目指しているのは東南アジア地域において,武力の行使よらず友好と協力によって平和的手段によって解決する「平和の共同体」を構築することにあり,かつそれを東南アジア地域内外に拡大していくことも盛り込んでいる(第18条)。

 ヴェトナム戦争の終結後,当時まだいずれもASEANに加盟していなかったカンボジアとヴェトナムの間で軍事衝突が発生した。カンボジアのポル・ポト政府軍の度重なる国境侵犯に反撃する形で1978年末にヴェトナム軍がカンボジアに侵攻した。ヴェトナム軍は1989年に撤退し,冷戦が終結したのと同じ1991年に「カンボジア紛争の包括的な政治解決に関する協定」(パリ和平協定)が締結された後,インドシナ半島の4か国が次々とASEANに加盟し―ヴェトナム(1995年),ラオスとミャンマー(1997年)およびカンボジア(1999年)―,ASEANは現在の10か国の体制になった。ASEANへの加盟申請にはTACに加盟することが条件となっており,この時以降今日まで20数年間に亘ってASEAN諸国間での大きな紛争や軍事的衝突は生じていない。AOIPは,すでにふれたように,TACの理念を継承しており,そのお陰でASEAN諸国間では脅威の認識が極めて低いあるいは殆んどないことがASEAN域内で軍拡競争(arms race)が起こらない原因であると,ASEAN政治安全保障共同体(APSC)のレポート「地域協力を促進し脅威の認識を低下させる」は強調している(APSC 2023)。ある国の軍備の拡大が他国のそれを惹起し次に当該国のそれを一層拡大させるという悪循環=安全保障のジレンマ(security dilemma)はASEANにはなく,ASEANで軍拡競争が生じているというような言説は神話に過ぎないと同レポートは断じている。

 ASEANは東南アジア地域だけではなく,東アジア地域次いでインド太平洋地域においても地域協力に積極的に取り組み,「平和の共同体」を拡大し共有することにおいてフロントランナーの役割を果たしてきた。冷戦終結後の1990年代から2000年代にかけてASEANは,ASEANが主導し(ASEAN-led)ASEANが中心となる(ASEAN-centered)となる―それをASEANの中心性(ASEAN Centrality)と言う―機構を,ARF(ASEAN地域フォーラム:1994年),APT(ASEAN+3:1997年),EAS(東アジアサミット:2005年)と,次々と構築していった。これら3つの機構の中で現在最も注目を集めているのはEASである。その理由は,①すでに少しふれたようにインド太平洋地域の主要国が加盟していること,②EASに加盟するためにはTACに加盟することが条件となっていること,および③ASEANの中心性が担保されてきたこと,にある。

 しかし,2010年代に入ると,ASEANの中心性は試練にさらされることになった。その主原因はインド太平洋地域を舞台とした米国と中国の対立激化と両国の新政策―中国の「一帯一路構想」(BRI:2013年)と米国の「自由で開かれたインド太平洋構想(FOIP:2017年)がASEANの中心性を機能させる上で試練となってきたのである。こうした情勢の変化に対応して,ASEANの中心性によりインド太平洋地域に「平和の共同体」を構築することを目指して発出されたのがAOIP(2019年)であった。

 それでは,ASEAN各国の人々は米中対立が激化する中で,ASEANの中心性を掲げて米国と中国のいずれの側にも与しないで中立で独立の立場を鮮明にしているAOIPをどのように評価しているのだろうか。

 シンガポールにある「東南アジア研究所―ユソフ・イシャク研究所」(ISEAS―Yusof Ishak Institute:以下,ISEASと略記)の『東南アジアの状態―サーベイ・レポート』(The State of Southeast Asia: Survey Report,以下「サーベイ・レポート」と略記)では世論調査を行いその結果を2019年から毎年刊行している。同「「サーベイ・レポート」の最新版(2024年版)での世論調査の設問の1つに,米中対立とそれが東南アジアに及ぼすインパクトに対応する場合,ASEANの最良の選択肢として次の4つの中からどれを選びますか,がある。4つの選択肢とそれに対するASEAN10か国全体の世論調査の回答結果(2024年)は次のようになっている。

  • 1.米中二国からの圧力をかわす(fend off)ためにASEANの強靭性と統一とを強化する:46.8%。
  • 2.ASEANは米中のいずれの側にも与しない立場を採り続ける:29.1%。
  • 3.ASEANはその戦略的スペースをと選択肢とを拡大するために「第三者」(”third parties”)と連携を模索する(「第三者」として,EU,日本,インド,オーストラリア,韓国および英国が列挙されている):16.1%。
  • 4.ASEANが中立を維持するのは非現実的であるとして,米中のいずれかを選択せざるをえない:8.0%。

 このASEAN全体の回答結果は,4つの選択肢の上位2つを合わせると75.9%にもなっていることを示している。即ち,ASEANは米中対立のインパクトに対応するのに,ASEAN自身の強靭性と統一を強化し米中のいずれの側も選択しない(non-choice)=中立で独立の立場を採ることを支持するものが圧倒的多数を占めていることが分かるのである。この設問は2021年から行われてきており,これまでの回答結果は,83.7%(2021年)➡72.7%(2022年)76.0%(2023年)➡75.9%(2024年),となっており安定的に多数派を形成している。他方,米中のいずれかを選択せざるをえないという選択肢を支持するものは,4.0%(2021年)➡11.1%(2022年)➡6.0%(2023年)➡8.0%(2024年)と対照的に僅かであり少数派に留まってきている。以上の回答結果は,米中対立が激化する中でそれに巻き込まれることなく,中立で独立した立場を採るというAOIPの核心となる理念がASEAN諸国の人々によって圧倒的かつ安定的に支持されていることを明確に示している。

 次に,AOIPとそれが主導するEASとをインド太平洋の諸国はどのように評価しているかを見てみよう。2010年代に入ると中国と米国がそれぞれ新たな政策を提起することにより,現在のインド太平洋地域には,①ASEANを中心とするEAS,②米国のFOIPとそれによる米国を中心とする米日豪印の4か国からなるQUAD,および③中国を中心とするBRI,の3つの地域主義が存在するようになった。だが,ASEANを中心とするEASと他の2者(QUADとBRI)とは対照的と言っても良いほど性格が大きく異なっている。米国中心のQUADは少数の同盟国や友好国から成る機構(minilateralism:少数国間主義)であって中国を牽制し排除する強い傾向があり,他方中国のBRIは中国を中心とする二国間の協力の機構(bilateralism:二国間主義)であってそれを束ねて米国に対抗していこうというものである,それに対してASEANを中心とするEASは,インド太平洋の関係する諸国を包摂し対話の輪の中に迎え問題を平和的に解決していこうという多国間の友好と協力の機構(multilateralism:多国間主義)である。EASは米中を含む関係する諸国を結集できるだけの外交力を持っており,かつそれに代わるものがないという大きな優位性があり,何よりも「平和の共同体」を構築するという正統性がある。他方,QUADとBRIは相互の不信と対立のために,EASのようにインド太平洋地域を包含する地域協力のための機構になることが出来ないでいる。米中の2国のみならずインド太平洋の主要国は,EASの対話の輪から外れることのリスクを十分に認識しており,今日ではAOIPとそれが主導するEASとを高く評価して,支持し重視するようになってきている。直近の例として,第14回東アジアサミット(EAS)参加外相会議(2024年7月27日,於ラオス・ビエンチャン)において,日本の上川陽子外務大臣が,地域の戦略的課題について議論するプレミア・フォーラムとしてのEASの重要性を強調し,その上でAOIPへの支持を表明して,AOIPの諸原則に基づく形での協力に一層取り組んでいくことを表明したことを挙げておこう(外務省 2024)。

 ASEANは米中対立と軍拡競争の最中にあっても,AOIPを指針として国民世論の力と外交力によって,インド太平洋地域における「平和の共同体」を構築すべく,これからも平和の途を切り拓いて行くに違いない。

[注]
  • (1)2020年2月に起こった国軍のクーデターにより現在ミャンマーは内戦状態にある。そのため,この期間(2020-2023年)のミャンマーの軍事費に関するSIPRIのデータでは,名目価格では2498万ドルから2494万ドルへと横ばいであるが,実質価格では3220万ドルから3563万ドルへと1.11倍の増加となっている(2023年の軍事費はいずれも推計値)。本稿では,ASEAN加盟諸国間の関係に焦点を絞って現状と理由を明らかにすることとしており,特定のAEAN加盟国の国内問題に立入って検討するものではないので,ミャンマーについてもこれ以上ふれることはない。
  • (2)主にSIPRIのデータに依拠して,ASEANの軍事費の現状を明らかにするのが本稿の目的の一つであるが,SIPRIが発表しているのは東南アジア地域の軍事費の総額だけであって,実は,ASEAN加盟10か国の軍事費の総額に関するデータはない。このことは,ASEANと東南アジアの違いと関係する。東南アジア地域には現在11カ国が存在し,その内ASEANに加盟しているのは10か国であって,東ティモール(Timor-Leste)のみが未加盟である。東ティモールの2023年の軍事費は5510万ドルであって,SIPRIが発表している同年の東南アジアの軍事費478億ドルに占める割合は0.12%と極めて僅少であることから,本稿ではSIPRIの東南アジアに関する軍事費をASEANのそれとして述べていることをお断わりしておきたい。
[参考文献]
  • 1.APSC(2023), Promoting Regional Cooperation: Towards Reduced Threat Perceptions, APSC Outlook , Vol.5, No.1, April 2023, ASEAN Secretariat, Jakarta, Indonesia.
  • 2.ASEAN(2024), ASEAN Economic Integration Brief , No.15, July 2024, ASEAN Secretariat, Jakarta, Indonesia.
  • 3.外務省(2004)『東南アジアにおける友好協力条約の説明書』2004年3月。
  • 4.外務省(2024)「第14回東アジア首脳会議(EAS)参加国外相会議」2024年7月24日。
  • 5.IISS (2024), The Military Balance 2024 , Routledge, London, UK.
  • 6.IMF (2024), World Economic Outlook Database , April 2024.
  • 7.ISEAS, The State of Southeast Asia , various years, Singapore.
  • 8.SIPRI (2024a), Military Expenditure Database , April, 2024.
  • 9.SIPRI (2024b), Trends in World Military Expenditure 2023 , April 2024.
(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article3538.html)

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