世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
トレンドに左右されない国際主義と世界システムの在り方
(国際貿易投資研究所 客員研究員)
2024.07.22
レッズのデラクルーズ選手が「大谷ともっと話したいので,今,日本語を学んでいる」といっていたが,国際主義を擁護する者としては大歓迎の発言である。これを契機に,こうした人がもっともっと増えれば良いと思う。言語は人間の思考様式の根幹を形成するものであり,民族の誇りにもなるものである。外国語を学べば,国際人になれるとか国際理解が深まる,という考えは短絡過ぎる発想である。また,近年は2週間程度の海外ホームステイを留学と称しているが,単なる修学旅行ではないか。まして携帯用自動翻訳機が1万円程度で買えたり,AIによって100カ国以上の言語が瞬時に翻訳される時代になっており,これが国際理解につながるとは思えない。
明治以降,欧米文化を取り入れるため福沢諭吉らは様々な文献を翻訳紹介してきた。確かに大変な労力と文化的寄与であったが,現在の文化的背景とは余りにも違っている。電卓も普及していなかった1960年代までは,回帰分析や生産関数の計算などによる研究論文で学位取得できた。そんな時代は既に遠い過去になっている。また,いくら販売部数を稼げるからといっても,教科書程度の翻訳作業を業績としてカウントすべきではなくなっている。分野は異にするが,TVニュースで,ルーブル美術館のイベントで「たこ焼き」を食べていたパリジェンヌが紹介されていたが,中々好評だった様である。大吟醸高級酒にこだわることなく,BC級グルメも自信をもってどんどん輸出したら良い。フランスの宮廷料理ばかりが格調の高い食文化ではないし,そもそもイギリス料理店とかアメリカレストランなどというのが一般的にはなっていない。欧米の庶民は,我が国の街の精肉店が揚げたコロッケやとんかつを「こんな旨いものを食べたことがない」という。高々,数十円か数百円のものである。我が国食文化のレベルを誇りに思うべきであり,インバウンド以前に輸出するものは沢山ある。
敗戦史観や欧米コンプレックスを克服した時,我々は真の国際人になれるのではないだろうか。もちろんエゴイスティックなナショナリズムは論外だが,国際的視点とはどういうものかをもう一度考え直す時期ではないか。EUで極右勢力が台頭しているとしてマスコミが大変話題にしているが,極右とか極左という表現は如何なものかと常々感じている。左右とはどういう概念(注1)なのかということであり,そもそも立ち位置がズレれば,右も左も逆転してしまう。移民問題に対するスタンスで区分けする傾向がある様だが,フェイガン(注2)は現在の地球人口規模と開発状況から見て,移動によって経済社会問題を解決,あるいは調整できる時代は既に終わっていると指摘している。つまり,「出エジプト」の時代と現代では地球人口が余りにも異なっている。全地球は混み過ぎているのである。
ドイツは戦前の反省から,民族差別はしないとのことで移民受け入れに寛容な政策をとっているという。だから我が国も民主国家なら,もう少し「外国人を受け入れるべきだ!」と主張する自称リベラル派も少なくない。EU統合によって国境の壁は低くなっており,東欧諸国からのドイツ集中が増加している。我が国や韓国,東南アジア諸国の首都圏一極集中は経済的動機が原動力になっているとも考えられるが,他方で過密は新たな問題を引き起こしている。インドネシアではジャカルタからカリマンタンへ,首都移転せざるを得なくなってしまった。フェイガンの問題指摘が現実化しないだろうかと懸念される。さらに,ファッションに関して言及すれば背広とネクタイ姿でないと相手に失礼であるということもないだろう。気候に合った服装は環境負荷にならないし,いわゆる民族衣装はそれなりの合理性もある。ことさら単一のファッションに統一させたがるのは,上位者の悪趣味としか思えない。
交流発電方式を開発した技術者で,歴史に埋没した天才ニコラ・テスラは「善悪は分離できない。分離すれば人は存在できない」「一人の人間は儚く,民族や国家は誕生し消滅するが,人類は生き残る」という言葉を残している。長寿で人生を全うした巨人は晩年に宗教がかってしまう人も珍しくないが,テスラの二つの言葉は名言だと思う。『戦争と平和』や『罪と罰』は二元論的矛盾をそのまま表現しており,誰にも解けない課題として読者に迫っている。それ故,ロシア文学は幾重にも解釈可能という意味において存在感を高めている。その背後にはおびただしい屍が存在していることも忘れてはならない。
冒頭の語学コンプレックスや,外国文献・雑誌に掲載されれば,評価が高まるという認識では国際レベルの研究や外交は出来ない。自ら評価するという気概がないのか。親父がいなくなったら尊敬する対象も,反抗する相手も消滅するのか。国際政治の覇権国がいなくなったらお手上げでは困るだろう。ようやく我が国は人口減少社会が現実の問題として認識される気運になってきた。半世紀前からその趨勢は解っていたのに今更の感は否めない。制度設計がおかしいから,スムーズに世代交代しないのであり,国内人口の地域分布も極端な形で偏在化する。
地方社会は未だに封建遺制の父権的絶対主義のような観念に覆われている。それが過疎化を促している。社会の在り方が嫌われているから若年層の脱出が激しい。そのためか空間は広々しているから自然は豊かであり,暮らすには環境面で良好である。人がいないから素敵な空間ともいえるが,自然は良いが社会に齟齬があるのである。大都市は正にその逆で,住環境は最悪でも社会ルールは相対的にマシ=「近代化」されているのである。
自らの文化にはプライドを持つべきであり,あまりに欧米に対して卑屈になっては,外交というものを展開できない。マスコミの論調も同様である。逆に,我が国は先発国としてグローバルサウスなる諸国に対して,「兎と亀」の話でも困る。
[注]
- (1)マルティン・ガードナー『自然界における左と右』紀伊国屋書店,1971年。
- (2)ブライアン・フェイガン『古代文明と気候変動』河出文庫,2008年。
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